【バイタルエリアの仕事人】Vol.22 大谷秀和|レイソル一筋20年で現役を全う。23歳から38歳までキャプテンを務めた男が心がけていたもの
カテゴリ:連載・コラム
2022年11月29日
「監督がボランチの選手にどういうプレーを求めているのか」を常にいち早く察知
攻守の重要局面となる「バイタルエリア」で輝く選手たちのサッカー観に迫る連載インタビューシリーズ「バイタルエリアの仕事人」。第22回は、2022年シーズン限りでの引退を表明した柏レイソルのMF大谷秀和だ。
レイソルのU-15からU-18を経て、2003年にトップチームに昇格。以降20年間、2008年以降はキャプテンも務め、柏一筋で現役生活を全うした。アカデミー時代を加えると、26年もの時間をレイソルで過ごしたバンディエラだ。
四半世紀以上をレイソルで過ごしたワンクラブマンに、ポジションの変遷や38歳まで現役を続けられた理由、移籍願望の有無などについて訊いた。
――◆――◆――
ユースではトップ下でしたが、トップチームに上がってからはボランチにコンバート。石﨑(信弘)さんが監督になった2006年からは、左サイドバックがベースポジションで、3バックの真ん中や、たまにボランチに入る。本当に色んなポジションをやらせてもらいました。
僕は高校サッカー出身ではなく、クラブチームは高校に比べればフィジカル的なトレーニングが少なく、どちらかと言えばテクニックを重視してやっていました。そのなかで、2006年に監督になった石崎さんにプロで戦うフィジカルを、本当に徹底的に鍛えてもらいました。
練習はとにかくきつかったです。ただ、当時の僕には必要で、石﨑さんとのその期間があったから、この年まで現役でプレーできたと思っています。
レイソルのU-15からU-18を経て、2003年にトップチームに昇格。以降20年間、2008年以降はキャプテンも務め、柏一筋で現役生活を全うした。アカデミー時代を加えると、26年もの時間をレイソルで過ごしたバンディエラだ。
四半世紀以上をレイソルで過ごしたワンクラブマンに、ポジションの変遷や38歳まで現役を続けられた理由、移籍願望の有無などについて訊いた。
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ユースではトップ下でしたが、トップチームに上がってからはボランチにコンバート。石﨑(信弘)さんが監督になった2006年からは、左サイドバックがベースポジションで、3バックの真ん中や、たまにボランチに入る。本当に色んなポジションをやらせてもらいました。
僕は高校サッカー出身ではなく、クラブチームは高校に比べればフィジカル的なトレーニングが少なく、どちらかと言えばテクニックを重視してやっていました。そのなかで、2006年に監督になった石崎さんにプロで戦うフィジカルを、本当に徹底的に鍛えてもらいました。
練習はとにかくきつかったです。ただ、当時の僕には必要で、石﨑さんとのその期間があったから、この年まで現役でプレーできたと思っています。
2009年に監督に就任したネルシーニョの頃からは、インサイドハーフだった吉田(達磨)監督が指揮された2015年以外は、ボランチをやってきました。
現役時代に11人の指揮官のもとでプレーしました。監督はやりたいサッカー、やりたいチーム作りがあります。僕はボランチなので「監督がボランチの選手にどういうプレーを求めているのか」を常にいち早く察知するようにはしていました。
自分が試合に出てチームに貢献するために、何が必要なのか、何を求められているのか。監督が求めるボランチのプレーをやりながら、自分の良さを出すよりも、何を求められているのかを、監督が代わる時には常に考えていました。
また、移籍や海外挑戦を考える機会はありませんでした。ただ、J1で優勝して出場できたクラブ・ワールドカップやACLに出て海外のチームと対戦するのは、とても充実していました。そういうチームと数多く対戦したいとは思っていました。
でも、2011年のクラブ・ワールドカップにはJ1優勝での開催国枠での“ご褒美”みたいな出場だったので、もう一度、日本より上に位置するACLを優勝して出たいという思いで戦っていました。
現役時代に11人の指揮官のもとでプレーしました。監督はやりたいサッカー、やりたいチーム作りがあります。僕はボランチなので「監督がボランチの選手にどういうプレーを求めているのか」を常にいち早く察知するようにはしていました。
自分が試合に出てチームに貢献するために、何が必要なのか、何を求められているのか。監督が求めるボランチのプレーをやりながら、自分の良さを出すよりも、何を求められているのかを、監督が代わる時には常に考えていました。
また、移籍や海外挑戦を考える機会はありませんでした。ただ、J1で優勝して出場できたクラブ・ワールドカップやACLに出て海外のチームと対戦するのは、とても充実していました。そういうチームと数多く対戦したいとは思っていました。
でも、2011年のクラブ・ワールドカップにはJ1優勝での開催国枠での“ご褒美”みたいな出場だったので、もう一度、日本より上に位置するACLを優勝して出たいという思いで戦っていました。