“狂気のビエルサ”は多くの敵と有能な“弟子”を生み出した。
アスレティック・ビルバオ時代(2011~2013年)のマルセロ・ビエルサ監督を取材した経験がある。
フットボールのために身体を借りている、という印象を受けた。偏りも、歪みも、精度の高さも、全て彼であり、どこを切り取っても、ビエルサというフットボールでしかなく、フラクタル(自己相似)だった。
フットボールに対する並外れた情熱は「狂」を帯び、その狂から思想を発していた。思想とは、己の正義を論理化したものだろう。学び続けているが、それは思想を確立するためであって、誰かと折り合うことは一切ない。
理想とするフットボールを体現するために、全てを抽象化、もしくは部品化し、自らをも精密な機械と捉えられるところがあった。周りから見れば、その追求心は狂気に近い。
結果的に、“狂気のビエルサ”はチーム関係者とうまくいかず、ビルバオを去ることになった。
「オフのあいだにトレーニング施設のリフォームを完了すると約束した。それを果たせていない! なぜだ」
ビエルサは腹を立て、業者を罵った。才気煥発な指揮官は、契約不履行が許せなかったのだろう。これを宥めようとしたクラブスタッフとも悶着を起こした。
結局、これがわだかまりを残し、溝を生んでしまう。チーム内の士気は、著しく下がってしまった。味方がいなくなってしまったのである。戦略的に見て、明らかなしくじりだった。
高い理想に向かって行動するビエルサは、他者にも完全無欠さを求める。相手の状況は一切顧慮しない。必然的に、たびたび軋轢を生んできた。ビルバオを退任後、マルセイユ、ラツィオなどでも似たような「約束を破った」という高潔すぎる姿勢で臨み、その任を降りている。
思想家的リーダーが、しくじる時の典型的例だろう。
しかしその一方で、この思想家的な指導者は、多くの「弟子」を育てている。
ディエゴ・シメオネ(アトレティコ・マドリー)、エドゥアルド・ベリッソ(セルタ)、ホルヘ・サンパオリ(セビージャ)はいずれも、ビエルサの影響を色濃く受けている。
そして、理想に走りがちだったマネジメントに、実務的な感覚を採り入れた。3人のフットボールは、より実戦的なものとなっている。それは集団のマネジメントも同じで、柔軟性を忘れていない。思想家から実務家へ、という流れか。
フットボールのために身体を借りている、という印象を受けた。偏りも、歪みも、精度の高さも、全て彼であり、どこを切り取っても、ビエルサというフットボールでしかなく、フラクタル(自己相似)だった。
フットボールに対する並外れた情熱は「狂」を帯び、その狂から思想を発していた。思想とは、己の正義を論理化したものだろう。学び続けているが、それは思想を確立するためであって、誰かと折り合うことは一切ない。
理想とするフットボールを体現するために、全てを抽象化、もしくは部品化し、自らをも精密な機械と捉えられるところがあった。周りから見れば、その追求心は狂気に近い。
結果的に、“狂気のビエルサ”はチーム関係者とうまくいかず、ビルバオを去ることになった。
「オフのあいだにトレーニング施設のリフォームを完了すると約束した。それを果たせていない! なぜだ」
ビエルサは腹を立て、業者を罵った。才気煥発な指揮官は、契約不履行が許せなかったのだろう。これを宥めようとしたクラブスタッフとも悶着を起こした。
結局、これがわだかまりを残し、溝を生んでしまう。チーム内の士気は、著しく下がってしまった。味方がいなくなってしまったのである。戦略的に見て、明らかなしくじりだった。
高い理想に向かって行動するビエルサは、他者にも完全無欠さを求める。相手の状況は一切顧慮しない。必然的に、たびたび軋轢を生んできた。ビルバオを退任後、マルセイユ、ラツィオなどでも似たような「約束を破った」という高潔すぎる姿勢で臨み、その任を降りている。
思想家的リーダーが、しくじる時の典型的例だろう。
しかしその一方で、この思想家的な指導者は、多くの「弟子」を育てている。
ディエゴ・シメオネ(アトレティコ・マドリー)、エドゥアルド・ベリッソ(セルタ)、ホルヘ・サンパオリ(セビージャ)はいずれも、ビエルサの影響を色濃く受けている。
そして、理想に走りがちだったマネジメントに、実務的な感覚を採り入れた。3人のフットボールは、より実戦的なものとなっている。それは集団のマネジメントも同じで、柔軟性を忘れていない。思想家から実務家へ、という流れか。