ダメならほかの学校に行くか、勉強でヒガシに入学するか…
小学校時代はずっとフォワードで、中学生になってからは前線かシャドーで起用されていたという。
圧倒的なボールキープ力、シャープな身のこなし、奇抜なフェイントの数々。ひとつ下の後輩・宮原は、「モッサン(本山)はなにをやらせても巧かった。ずっと僕の身近なアイドルでした」と、その背中を見つめていた。創造性あふれるファンタジスタとしての才が、花開こうとしていた。
そんな本山を見初め、声を掛けた名伯楽がいる。東福岡の志波監督だ。「北九州じゃ有名な子だったし、技術は申し分なかった。だから来ないかと誘ったんです」と回顧する。中3の夏のことだ。
「兄ちゃんは豊国高校でサッカーをしてたんですけど、『高校はヒガシがいいぞ』って言ってくれてた。巧い選手やサッカーを楽しんでる選手がいっぱいいるから、お前に向いてるはずだと。ちょうど僕が中2の時かな、選手権で上(ベスト4)まで行ってて、楽しそうなサッカーしてるな、面白そうだなとは思ってました。したら志波先生に声を掛けてもらって。よし、ヒガシに行こうと。僕の中では完全に決まってたんですけどね」
ですけどね……とは気になる。突っ込んだら、なかなかのサイドストーリーがあった。
すっかり東福岡のサッカーに魅了され、本山はあしげく選手権予選など試合会場にも足を運ぶようになっていた。だが待てども待てども、志波先生からの連絡がない。監督は監督で、「本山はうちに来るもの」と確信しすぎていて、必要な手続きを失念してしまっていたのだ。二島中の担任に訊いても「話は来てないよ」と言われ、本山は徐々に「ダメならほかの学校に行くか、勉強でヒガシに入学してサッカー部に入るか、どうしようか考えはじめていた」という。
その窮地を救ったのが、ほかでもない兄の竜次さんだった。
選手権予選で、東福岡と豊国学園が対戦。残り5分まで勝っていた豊国だが、そこからまさかの逆転負けを喫した。その試合後だ。東福岡ベンチの前で一列に並んで挨拶したのち、竜次さんは志波監督の元へ駆け寄り、「弟をどうぞよろしくお願いします」とだけ伝え、立ち去ったという。あっ! 志波監督はすぐさま北九州に、雅志青年に会いにきてくれたという。
やがて名将は、生粋のアタッカーだと分かっていながら、入学まもない本山を4-1-4-1システムの1ボランチで起用する。その決断に至るまでの経緯がまた、愉快痛快だった。
<♯2につづく>
取材・文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※次回は東福岡での3年間を紐解き、栄光と苦難の日々に迫ります。3冠の偉業はいかにして達成されたのか、その舞台裏にディープに迫ります。こうご期待!
───◆───◆───
PROFILE
もとやま・まさし/1979年6月20日生まれ、福岡市北九州市出身。3つ上の兄の影響でサッカーを始め、地元の二島小、二島中でアタッカーとしての才能を育まれる。高校は名門・東福岡へ。1年時はボランチで選手権ベスト4、3年時にはナンバー10を背負って伝説の3冠を達成した。ユース代表でも攻撃の中枢を担い、98年アジアユースで得点王を獲得。鹿島アントラーズ入団2年目の1999年、ナイジェリア・ワールドユースでは自慢のドリブルを炸裂させ、U-20日本代表の準優勝に貢献、大会ベスト11に選出された。2000年のシドニー五輪にも出場。鹿島では5度のJ1リーグ優勝を含む14個のタイトルを獲得。17年間在籍し、13年間に渡って背番号10を着けた。そして2016年、生まれ故郷を本拠地とするギラヴァンツ北九州に移籍し、現在に至る。00年6月のボリビア戦でA代表デビュー。W杯出場は果たせなかったが、04年アジアカップ、05年コンフェデ杯などで存在を誇示した。日本代表通算/28試合出場・0得点。Jリーグ通算/405試合・38得点(J1は365試合・38得点)。175㌢・65㌔。A型。データはすべて2017年11月22日現在。
圧倒的なボールキープ力、シャープな身のこなし、奇抜なフェイントの数々。ひとつ下の後輩・宮原は、「モッサン(本山)はなにをやらせても巧かった。ずっと僕の身近なアイドルでした」と、その背中を見つめていた。創造性あふれるファンタジスタとしての才が、花開こうとしていた。
そんな本山を見初め、声を掛けた名伯楽がいる。東福岡の志波監督だ。「北九州じゃ有名な子だったし、技術は申し分なかった。だから来ないかと誘ったんです」と回顧する。中3の夏のことだ。
「兄ちゃんは豊国高校でサッカーをしてたんですけど、『高校はヒガシがいいぞ』って言ってくれてた。巧い選手やサッカーを楽しんでる選手がいっぱいいるから、お前に向いてるはずだと。ちょうど僕が中2の時かな、選手権で上(ベスト4)まで行ってて、楽しそうなサッカーしてるな、面白そうだなとは思ってました。したら志波先生に声を掛けてもらって。よし、ヒガシに行こうと。僕の中では完全に決まってたんですけどね」
ですけどね……とは気になる。突っ込んだら、なかなかのサイドストーリーがあった。
すっかり東福岡のサッカーに魅了され、本山はあしげく選手権予選など試合会場にも足を運ぶようになっていた。だが待てども待てども、志波先生からの連絡がない。監督は監督で、「本山はうちに来るもの」と確信しすぎていて、必要な手続きを失念してしまっていたのだ。二島中の担任に訊いても「話は来てないよ」と言われ、本山は徐々に「ダメならほかの学校に行くか、勉強でヒガシに入学してサッカー部に入るか、どうしようか考えはじめていた」という。
その窮地を救ったのが、ほかでもない兄の竜次さんだった。
選手権予選で、東福岡と豊国学園が対戦。残り5分まで勝っていた豊国だが、そこからまさかの逆転負けを喫した。その試合後だ。東福岡ベンチの前で一列に並んで挨拶したのち、竜次さんは志波監督の元へ駆け寄り、「弟をどうぞよろしくお願いします」とだけ伝え、立ち去ったという。あっ! 志波監督はすぐさま北九州に、雅志青年に会いにきてくれたという。
やがて名将は、生粋のアタッカーだと分かっていながら、入学まもない本山を4-1-4-1システムの1ボランチで起用する。その決断に至るまでの経緯がまた、愉快痛快だった。
<♯2につづく>
取材・文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※次回は東福岡での3年間を紐解き、栄光と苦難の日々に迫ります。3冠の偉業はいかにして達成されたのか、その舞台裏にディープに迫ります。こうご期待!
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PROFILE
もとやま・まさし/1979年6月20日生まれ、福岡市北九州市出身。3つ上の兄の影響でサッカーを始め、地元の二島小、二島中でアタッカーとしての才能を育まれる。高校は名門・東福岡へ。1年時はボランチで選手権ベスト4、3年時にはナンバー10を背負って伝説の3冠を達成した。ユース代表でも攻撃の中枢を担い、98年アジアユースで得点王を獲得。鹿島アントラーズ入団2年目の1999年、ナイジェリア・ワールドユースでは自慢のドリブルを炸裂させ、U-20日本代表の準優勝に貢献、大会ベスト11に選出された。2000年のシドニー五輪にも出場。鹿島では5度のJ1リーグ優勝を含む14個のタイトルを獲得。17年間在籍し、13年間に渡って背番号10を着けた。そして2016年、生まれ故郷を本拠地とするギラヴァンツ北九州に移籍し、現在に至る。00年6月のボリビア戦でA代表デビュー。W杯出場は果たせなかったが、04年アジアカップ、05年コンフェデ杯などで存在を誇示した。日本代表通算/28試合出場・0得点。Jリーグ通算/405試合・38得点(J1は365試合・38得点)。175㌢・65㌔。A型。データはすべて2017年11月22日現在。