「要はどれだけ“積み立てるか”」と母は教えた。
高校3年時、岡崎のもとにいくつかのJクラブからオファーが届いた時、山村は母の富美代とともに相談に乗り、「男としてひと旗揚げたいなら、勝負してこい!」と清水入りを後押しした。
そして、岡崎が地元を離れる際の壮行会で、山村はプレゼント用のTシャツにあるメッセージを託した。
“一生ダイビングヘッド”
「この言葉も『サムライ』も、シンジはさも自分が編み出したように使ってますけど、全部俺のパクリですから(笑)」
以前、山村が岡崎にそう突っ込むと、「そういうことは言わないでおきましょうよ」と岡崎も笑った。小学生時代、山村の実家に子どもたちを泊まりに呼べば、家にあるユニホームを見つけて「コーチ、これエエやん!」と着て帰ってしまう岡崎少年。山村の父親が気を遣って、「なんか、こうたろか?」と聞けば、悪びれずに「アイスクリーム!」と無邪気に応じてみせる。
「あいつぐらいですよ、うちの親父をホンマにパシらせたのは(笑)」
懐かしい思い出を一つひとつ、ひも解いてくれた山村は、プロとして成長し続ける岡崎の活躍を次のように見ている。
「今も昔も、あいつは“引き”が強い。強運の持ち主ですよね。北京オリンピック前のオーストラリア戦で、まぐれ気味のヘディングシュートを決めてましたけど、それもあそこに飛び込まなければ生まれないもの。努力して、必死でプレーしているから“引ける”。そういう部分は鍛えてきたつもりです」
努力し続けることの大切さは、富美代も手を替え品を替え、伝えてきたことだ。高校時代にテニスのダブルスでインターハイ優勝を成し遂げた、元アスリートでもある母親だからこそ、言えることがある。
「要はどれだけ“積み立てるか”なんです。ゴールを決めたり、優勝したりする時は、それまでやってきたことが引き出されているんです。だから、そのぶんさらに頑張って、また引き出せるようにしないと。最近は、あの子も『また積み立てるわー』って言ったりもしています」
母の教えを忠実に守り、スタンドから大声で「マジメにやれー!」と喝を入れる山村からはサムライ魂を叩き込まれた。
冒頭の手紙のなか、富美代は「ここが好きなんですよ」とある箇所を指で指し示す。
『これから先、もっと大きい、もっともっと大きい親孝行をするから、今は僕の成長を楽しみに、見守って応援して下さい』
プロになり、苦労の末にクラブでレギュラーを掴むと、08年には北京五輪に出場し、A代表にまで上り詰めた。南アフリカ・ワールドカップでは1ゴールを記録。その後、海外移籍を決意し、二度目のワールドカップ出場を果たして、今季はドイツからイングランドに活躍の場を移した。
そして新天地レスターでは――クラブ創設132年で初のプレミアリーグ制覇という歴史的な偉業に大きく貢献した。
「宝塚の星」(山村)は、今も果てなき成長を続けている。
(文中敬称略)
取材・文:広島由寛(サッカーダイジェスト編集部)
※『週刊サッカーダイジェスト』2014年7月10日発行 『日本代表23人の少年時代』より抜粋・加筆
そして、岡崎が地元を離れる際の壮行会で、山村はプレゼント用のTシャツにあるメッセージを託した。
“一生ダイビングヘッド”
「この言葉も『サムライ』も、シンジはさも自分が編み出したように使ってますけど、全部俺のパクリですから(笑)」
以前、山村が岡崎にそう突っ込むと、「そういうことは言わないでおきましょうよ」と岡崎も笑った。小学生時代、山村の実家に子どもたちを泊まりに呼べば、家にあるユニホームを見つけて「コーチ、これエエやん!」と着て帰ってしまう岡崎少年。山村の父親が気を遣って、「なんか、こうたろか?」と聞けば、悪びれずに「アイスクリーム!」と無邪気に応じてみせる。
「あいつぐらいですよ、うちの親父をホンマにパシらせたのは(笑)」
懐かしい思い出を一つひとつ、ひも解いてくれた山村は、プロとして成長し続ける岡崎の活躍を次のように見ている。
「今も昔も、あいつは“引き”が強い。強運の持ち主ですよね。北京オリンピック前のオーストラリア戦で、まぐれ気味のヘディングシュートを決めてましたけど、それもあそこに飛び込まなければ生まれないもの。努力して、必死でプレーしているから“引ける”。そういう部分は鍛えてきたつもりです」
努力し続けることの大切さは、富美代も手を替え品を替え、伝えてきたことだ。高校時代にテニスのダブルスでインターハイ優勝を成し遂げた、元アスリートでもある母親だからこそ、言えることがある。
「要はどれだけ“積み立てるか”なんです。ゴールを決めたり、優勝したりする時は、それまでやってきたことが引き出されているんです。だから、そのぶんさらに頑張って、また引き出せるようにしないと。最近は、あの子も『また積み立てるわー』って言ったりもしています」
母の教えを忠実に守り、スタンドから大声で「マジメにやれー!」と喝を入れる山村からはサムライ魂を叩き込まれた。
冒頭の手紙のなか、富美代は「ここが好きなんですよ」とある箇所を指で指し示す。
『これから先、もっと大きい、もっともっと大きい親孝行をするから、今は僕の成長を楽しみに、見守って応援して下さい』
プロになり、苦労の末にクラブでレギュラーを掴むと、08年には北京五輪に出場し、A代表にまで上り詰めた。南アフリカ・ワールドカップでは1ゴールを記録。その後、海外移籍を決意し、二度目のワールドカップ出場を果たして、今季はドイツからイングランドに活躍の場を移した。
そして新天地レスターでは――クラブ創設132年で初のプレミアリーグ制覇という歴史的な偉業に大きく貢献した。
「宝塚の星」(山村)は、今も果てなき成長を続けている。
(文中敬称略)
取材・文:広島由寛(サッカーダイジェスト編集部)
※『週刊サッカーダイジェスト』2014年7月10日発行 『日本代表23人の少年時代』より抜粋・加筆