アジアカップ韓国戦のPK失敗は「相当へこんだ」
――日本代表の監督に就任すると聞いた時は?
「結構ショックでした。ずっとやって来て、ファミリーという感じでしたし、もっと教わりたかったので。あとは、周りから『日本代表に呼ばれるのでは?』という目で見られるようになって、徐々にプレッシャーになってきました。日本代表に行けるクオリティの選手とは思っていなかったので」
――実際、オシムジャパンで初めて代表に招集されました。
「嬉しさより『やばい』という感情でしたね。僕なんか代表レベルではないのだから、足を引っ張らないようにやらなきゃとか、迷惑かけられないとか、そんなことばかり考えていました。日の丸の重さなんて知らないし、どうなってしまうのだろうと。常に必死だったし、プレッシャーのほうが大きかったですね。その前のジーコさんの時に『大枠の50人』に選ばれた時があったのですが、その時の方がよっぽど嬉しかったですね。名前が挙がっただけで、活動はなかったのですが」
――恩師が監督で、他のオシムチルドレンもいました。それでもプレッシャーの方が大きかった?
「そうですね、僕の弱さだと思うのですが、周りの目とか、ほかの選手がどう思っているのかな、と意識してしまって。オシムさんだから選ばれているというのは自分でも分かっていましたし、周りの人もそう見ていると思いながら、練習や試合を消化していくのが難しかった。オシムさんの顔に泥を塗る訳にはいかない、日本代表として試合に出るなら戦力にならなきゃいけない、というプレッシャーに正直打ち勝てなかった。でも、いま『元日本代表』と言ってくれるのはオシムさんのおかげなので、感謝をしています」
「結構ショックでした。ずっとやって来て、ファミリーという感じでしたし、もっと教わりたかったので。あとは、周りから『日本代表に呼ばれるのでは?』という目で見られるようになって、徐々にプレッシャーになってきました。日本代表に行けるクオリティの選手とは思っていなかったので」
――実際、オシムジャパンで初めて代表に招集されました。
「嬉しさより『やばい』という感情でしたね。僕なんか代表レベルではないのだから、足を引っ張らないようにやらなきゃとか、迷惑かけられないとか、そんなことばかり考えていました。日の丸の重さなんて知らないし、どうなってしまうのだろうと。常に必死だったし、プレッシャーのほうが大きかったですね。その前のジーコさんの時に『大枠の50人』に選ばれた時があったのですが、その時の方がよっぽど嬉しかったですね。名前が挙がっただけで、活動はなかったのですが」
――恩師が監督で、他のオシムチルドレンもいました。それでもプレッシャーの方が大きかった?
「そうですね、僕の弱さだと思うのですが、周りの目とか、ほかの選手がどう思っているのかな、と意識してしまって。オシムさんだから選ばれているというのは自分でも分かっていましたし、周りの人もそう見ていると思いながら、練習や試合を消化していくのが難しかった。オシムさんの顔に泥を塗る訳にはいかない、日本代表として試合に出るなら戦力にならなきゃいけない、というプレッシャーに正直打ち勝てなかった。でも、いま『元日本代表』と言ってくれるのはオシムさんのおかげなので、感謝をしています」
――アジアカップでは、韓国との3位決定戦でPKを失敗しました。
「あの大会を通じて何度も決定機を外していました。あの試合もそうで、引きずったままPK戦に臨んだので、メンタル的にはかなり動揺していました。失敗した後、ミックスゾーンで『正直、指名された時は一瞬蹴りたくないと思いました。けれど、日本を代表して蹴るので、もちろん決めるつもりで挑みました』とコメントしたんですが、『蹴りたくなかった』というところだけが切り取られてしまって。そういう怖さも知りましたね」
「ただ、最近になってある大会でブラジルの選手でも、PKを蹴りたがらなかった選手がいたという記事を目にしたりすると少し安堵する自分もいました(笑)。あの大会は僕のサッカー人生の中でもどん底の中のどん底でしたが、すべてをひっくるめていい経験となりましたし、あの大会があったから、今があると思っています」
――PK失敗は尾を引いた?
「相当へこんでいましたね。日本に戻ってきて、綺麗な空気を吸いに行こうと思って嫁さんと上高地に行ったのですが、そこでもファンの方に『お疲れ様でした』と声を掛けられて。離れた後に『あの人たちもきっと俺がPK外した人だって言っているよ』って自虐的な話をしていたくらいです。嫁は苦笑いしていましたが(笑)。ただ、Jリーグが再開した時に、ジェフのサポーターが揃って「俺たちの直剛」みたいな紙を持って、迎え入れてくれたのです。それを見た時は感動したし、『家に帰ってこれた』と感じました。それも含めて、本当に貴重な体験をしたと思いますね」
「あの大会を通じて何度も決定機を外していました。あの試合もそうで、引きずったままPK戦に臨んだので、メンタル的にはかなり動揺していました。失敗した後、ミックスゾーンで『正直、指名された時は一瞬蹴りたくないと思いました。けれど、日本を代表して蹴るので、もちろん決めるつもりで挑みました』とコメントしたんですが、『蹴りたくなかった』というところだけが切り取られてしまって。そういう怖さも知りましたね」
「ただ、最近になってある大会でブラジルの選手でも、PKを蹴りたがらなかった選手がいたという記事を目にしたりすると少し安堵する自分もいました(笑)。あの大会は僕のサッカー人生の中でもどん底の中のどん底でしたが、すべてをひっくるめていい経験となりましたし、あの大会があったから、今があると思っています」
――PK失敗は尾を引いた?
「相当へこんでいましたね。日本に戻ってきて、綺麗な空気を吸いに行こうと思って嫁さんと上高地に行ったのですが、そこでもファンの方に『お疲れ様でした』と声を掛けられて。離れた後に『あの人たちもきっと俺がPK外した人だって言っているよ』って自虐的な話をしていたくらいです。嫁は苦笑いしていましたが(笑)。ただ、Jリーグが再開した時に、ジェフのサポーターが揃って「俺たちの直剛」みたいな紙を持って、迎え入れてくれたのです。それを見た時は感動したし、『家に帰ってこれた』と感じました。それも含めて、本当に貴重な体験をしたと思いますね」