ベンチにいて楽しかったのは、ワールドユースとあの南アだけかな。
ジーコジャパンでは、さらにステータスを確固たるものとした。
中田英寿、中村俊輔、小野伸二と奏でた和製・黄金のカルテットは、いまでも語り草だ。だが、稀代のボランチは思い悩みながら取り組んでいたという。
「クラブと代表の両立ってところで、いろいろ考えるところはありましたよ。クラブで試合にあんまり出れてない中でも、代表にはつねに呼んでもらえる。そこでの葛藤はあったし、一方で、代表があったからクラブでも頑張れるという気持ちもあった。いろいろ難しい、考えさせられた4年間でしたね。もちろん移動や時差調整の厳しさもあったし」
2004年6月の英国遠征。1-1で引き分けたイングランドとの親善試合で、稲本は左足の腓骨を骨折してしまう。全治3か月。この大怪我の影響もあってフルアムからウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンへ活躍の場を移すのだが、ジーコジャパンでの立ち位置においても、これがひとつの分岐点となる。
稲本不在のなか、チームは酷暑の中国アジアカップで優勝。福西崇史や小笠原満男、遠藤保仁のステータスが一気に上がった。
「ジーコさんの考えとしては、レギュラーは順番だと。いっかいそこから落ちると取り戻すのは大変やったし、実際にワールドカップでもレギュラーを奪い切るまでには至らなかった」
迎えたドイツ・ワールドカップ。稲本はグループリーグ初戦のオーストラリア戦をベンチで見守った。ゲーム終盤に攻守両面で瓦解するジーコジャパンを目の当たりにし、なにもできないもどかしさを感じた。
「ラッキーなゴールで先制したんやけど、勝ってるだけに難しさがあった試合。ディフェンスラインに怪我人が出るアクシデントに対して、準備が不足してたし、1点取られてからバタバタした。攻めるのか守るのか分からない状況で。僕の出番かなと思ったけど、監督が選んだのはシンジ(小野伸二)。これは点を取りにいくんやなと思った。でも、そのメッセージが伝わってなかったんかな。あの日はものすごく暑くて、冷静に判断できんところがあったんかもしれん。前と後ろのやりたいことが噛み合ってなかった。ディフェンスラインを上げれない状況で、前がどんどん行ってしまってね」
日本は1-3の惨敗を喫してしまう。稲本は第2戦のクロアチア戦で後半頭から、第3戦のブラジル戦では先発フル出場を果たしたが、決勝トーナメントには導けなかった。
4年後、イナは南アフリカの地に降り立ち、3度目のワールドカップを戦う。勢いのまま駆け抜けた2002年、屈辱と敗北感に苛まれた2006年。ふたつの両極端な大会で酸いも甘いも噛み分けた30歳の熟練工は、岡田ジャパンの快進撃を支える、縁の下の力持ちとなった。
「ベンチにいて楽しかったのは、ワールドユースとあの南アだけかな」
なかなか味わい深い、名言である。
<♯6に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※9月16日掲載予定の最終回では、今月18日に38歳の誕生日を迎えるフットボーラーの等身大の姿に迫ります。近未来へのビジョン、日本サッカー&若き後進たちへの提言、指導者に対する関心、そして、いつかスパイクを脱ぐXデーは……。稀代のボランチがファイナルアンサーに答えます。ご期待ください!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで 1995-2017
───◆───◆───
PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年9月10日現在。
中田英寿、中村俊輔、小野伸二と奏でた和製・黄金のカルテットは、いまでも語り草だ。だが、稀代のボランチは思い悩みながら取り組んでいたという。
「クラブと代表の両立ってところで、いろいろ考えるところはありましたよ。クラブで試合にあんまり出れてない中でも、代表にはつねに呼んでもらえる。そこでの葛藤はあったし、一方で、代表があったからクラブでも頑張れるという気持ちもあった。いろいろ難しい、考えさせられた4年間でしたね。もちろん移動や時差調整の厳しさもあったし」
2004年6月の英国遠征。1-1で引き分けたイングランドとの親善試合で、稲本は左足の腓骨を骨折してしまう。全治3か月。この大怪我の影響もあってフルアムからウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンへ活躍の場を移すのだが、ジーコジャパンでの立ち位置においても、これがひとつの分岐点となる。
稲本不在のなか、チームは酷暑の中国アジアカップで優勝。福西崇史や小笠原満男、遠藤保仁のステータスが一気に上がった。
「ジーコさんの考えとしては、レギュラーは順番だと。いっかいそこから落ちると取り戻すのは大変やったし、実際にワールドカップでもレギュラーを奪い切るまでには至らなかった」
迎えたドイツ・ワールドカップ。稲本はグループリーグ初戦のオーストラリア戦をベンチで見守った。ゲーム終盤に攻守両面で瓦解するジーコジャパンを目の当たりにし、なにもできないもどかしさを感じた。
「ラッキーなゴールで先制したんやけど、勝ってるだけに難しさがあった試合。ディフェンスラインに怪我人が出るアクシデントに対して、準備が不足してたし、1点取られてからバタバタした。攻めるのか守るのか分からない状況で。僕の出番かなと思ったけど、監督が選んだのはシンジ(小野伸二)。これは点を取りにいくんやなと思った。でも、そのメッセージが伝わってなかったんかな。あの日はものすごく暑くて、冷静に判断できんところがあったんかもしれん。前と後ろのやりたいことが噛み合ってなかった。ディフェンスラインを上げれない状況で、前がどんどん行ってしまってね」
日本は1-3の惨敗を喫してしまう。稲本は第2戦のクロアチア戦で後半頭から、第3戦のブラジル戦では先発フル出場を果たしたが、決勝トーナメントには導けなかった。
4年後、イナは南アフリカの地に降り立ち、3度目のワールドカップを戦う。勢いのまま駆け抜けた2002年、屈辱と敗北感に苛まれた2006年。ふたつの両極端な大会で酸いも甘いも噛み分けた30歳の熟練工は、岡田ジャパンの快進撃を支える、縁の下の力持ちとなった。
「ベンチにいて楽しかったのは、ワールドユースとあの南アだけかな」
なかなか味わい深い、名言である。
<♯6に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※9月16日掲載予定の最終回では、今月18日に38歳の誕生日を迎えるフットボーラーの等身大の姿に迫ります。近未来へのビジョン、日本サッカー&若き後進たちへの提言、指導者に対する関心、そして、いつかスパイクを脱ぐXデーは……。稀代のボランチがファイナルアンサーに答えます。ご期待ください!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで 1995-2017
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PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年9月10日現在。