ずっとプロにはなれるもんやと思ってやってた。
小6になる頃には、大阪府内のジュニア世代はもちろん、選抜に選ばれるなど関西でも知られた存在となっていた。
いくつかの伝説が残されている。当時青英学園SCで監督を務めていた川口道夫さんは以前、こんな驚愕エピソードを聞かせてくれた。
「いつだったか、膝の下をスパイクされて、傷口がぱっくり開いて、肉まで見えるような怪我をしたんですよ。『これは当分お休みやな』と思ってたら、次の日にはピタッと塞がってたんです。縫いもせんとバンドエイドだけですよ。信じてもらえないかもしれませんけど、そういう自然治癒力みたいなのが彼にはあったのかもしれません」
さらに最初の恩師は、潤一少年をこう見ていたという。
「大人しいし、優しい性格の子でした。でも内に秘めるものというか、天性の負けず嫌いというか、グラウンドに出ると強い存在感がありましたね。プレーは本当にシンプル。小学生だとドリブルに頼りがちですけど、あの子はぜんぜん違った。ボールを受けたらすぐ前を向いて、2タッチくらいでさばいてましたから。なにがチームにとって一番大事なのかを、小さいなりに考えてたんでしょうね」
そしてイナは、ガンバ大阪との運命的な出会いを果たすのだ。1992年、発足まもないジュニアユースチームの第1期生となる。なぜ、中学もクラブチームを選んだのか。
「中学に行って部活でやる選択肢もなくはなかったけど、ガンバに誘ってもらった。迷わず決めましたね。大阪トレセンで一緒にやってた連中もガンバに行くと聞いてたし、Jリーグがちょうど始まったタイミングで盛り上がってたのもあるし。そっちのほうが絶対に強いと信じ切ってましたから」
毎日毎日、くどいくらいに基本の反復練習が繰り返された。止めて、蹴る。ボールを止める位置、止める角度など、それまで考えもつかなかった指導を受けたという。
「だから楽しかったんですよ。そういうところを口酸っぱく言われて、やっていくうちに自分がどんどん巧くなっていくのが分かった」
やがて中学3年生となり、U-16日本代表にも常時招集されるなど、もはや全国区の注目株だ。ポジションはストライカーから攻撃的MFを経て、ボランチでのコツを掴みはじめていた。
そのままガンバユースに昇格するわけだが、高体連のチームでプレーしたい、高校選手権に出てみたいとは微塵も考えなかったのだろうか。
「ない、まったくなかった。そもそも大阪から出る気がなかったんですよ。中2の時から大阪の高校サッカーの強豪とは何回も試合をしてた。イメージとしてはすごい走ってるし、これはキツそうやな、俺には無理やなと。間違いなくガンバのサッカーのほうが面白いと思ってたけど、実際のところは選択さえさせてもらえなかったんでね。ジュニアユースの最後の大会が終わったらすぐ、ユースの練習に行けって言われたから(笑)」
では、プロになりたい、あるいはプロになれると感じたのはいつ頃だったのか。稲本に言わせれば、この質問自体がナンセンスだったようだ。
「いつやろ、もうずっとプロにはなれるもんやと思ってやってた。気づいたらそんな感じ。ちょうど高1になる前にツネ(宮本恒靖)さんが初めてユースからトップに上がった。その頃には、僕もいずれトップで活躍するぞと燃えてましたね。まあそれにしても、ユースは上も同期もめっちゃ巧い選手ばっかりやったんで、僕もイバ(新井場徹)も高1はレギュラーでは出てない。サイドバックやったしね。高2になってからですよ、やっとスタメンを張れるようになったのは」
いくつかの伝説が残されている。当時青英学園SCで監督を務めていた川口道夫さんは以前、こんな驚愕エピソードを聞かせてくれた。
「いつだったか、膝の下をスパイクされて、傷口がぱっくり開いて、肉まで見えるような怪我をしたんですよ。『これは当分お休みやな』と思ってたら、次の日にはピタッと塞がってたんです。縫いもせんとバンドエイドだけですよ。信じてもらえないかもしれませんけど、そういう自然治癒力みたいなのが彼にはあったのかもしれません」
さらに最初の恩師は、潤一少年をこう見ていたという。
「大人しいし、優しい性格の子でした。でも内に秘めるものというか、天性の負けず嫌いというか、グラウンドに出ると強い存在感がありましたね。プレーは本当にシンプル。小学生だとドリブルに頼りがちですけど、あの子はぜんぜん違った。ボールを受けたらすぐ前を向いて、2タッチくらいでさばいてましたから。なにがチームにとって一番大事なのかを、小さいなりに考えてたんでしょうね」
そしてイナは、ガンバ大阪との運命的な出会いを果たすのだ。1992年、発足まもないジュニアユースチームの第1期生となる。なぜ、中学もクラブチームを選んだのか。
「中学に行って部活でやる選択肢もなくはなかったけど、ガンバに誘ってもらった。迷わず決めましたね。大阪トレセンで一緒にやってた連中もガンバに行くと聞いてたし、Jリーグがちょうど始まったタイミングで盛り上がってたのもあるし。そっちのほうが絶対に強いと信じ切ってましたから」
毎日毎日、くどいくらいに基本の反復練習が繰り返された。止めて、蹴る。ボールを止める位置、止める角度など、それまで考えもつかなかった指導を受けたという。
「だから楽しかったんですよ。そういうところを口酸っぱく言われて、やっていくうちに自分がどんどん巧くなっていくのが分かった」
やがて中学3年生となり、U-16日本代表にも常時招集されるなど、もはや全国区の注目株だ。ポジションはストライカーから攻撃的MFを経て、ボランチでのコツを掴みはじめていた。
そのままガンバユースに昇格するわけだが、高体連のチームでプレーしたい、高校選手権に出てみたいとは微塵も考えなかったのだろうか。
「ない、まったくなかった。そもそも大阪から出る気がなかったんですよ。中2の時から大阪の高校サッカーの強豪とは何回も試合をしてた。イメージとしてはすごい走ってるし、これはキツそうやな、俺には無理やなと。間違いなくガンバのサッカーのほうが面白いと思ってたけど、実際のところは選択さえさせてもらえなかったんでね。ジュニアユースの最後の大会が終わったらすぐ、ユースの練習に行けって言われたから(笑)」
では、プロになりたい、あるいはプロになれると感じたのはいつ頃だったのか。稲本に言わせれば、この質問自体がナンセンスだったようだ。
「いつやろ、もうずっとプロにはなれるもんやと思ってやってた。気づいたらそんな感じ。ちょうど高1になる前にツネ(宮本恒靖)さんが初めてユースからトップに上がった。その頃には、僕もいずれトップで活躍するぞと燃えてましたね。まあそれにしても、ユースは上も同期もめっちゃ巧い選手ばっかりやったんで、僕もイバ(新井場徹)も高1はレギュラーでは出てない。サイドバックやったしね。高2になってからですよ、やっとスタメンを張れるようになったのは」