【黄金世代】第4回・稲本潤一「浪速の風雲児、ここにあり!」(#1)

カテゴリ:特集

川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

2017年08月18日

じつはストライカー。ドカーン系やけど、足もそこそこ速かった。

中学からは産声を上げたばかりのG大阪ジュニアユースへ。やがて天職となる「ボランチ」と巡り会う。(C)SOCCER DIGEST

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 1979年9月18日、母の故郷である鹿児島で生を受けた。すぐさま一家は大阪南部の堺市に転居。3歳になった潤一少年は、地元の幼稚園、青英学園に通いはじめる。
 
 かつて稲本のルーツを辿った際、指導者の方々に数え切れないくらいのエピソードを伺った。だがよく考えると、彼自身にその生い立ちについて訊いたことがない。そもそもサッカーとはどうやって巡り会ったのか。意外な新事実がぽろりとこぼれた。
 
「青英学園に野球をする場がなかったんですよ。柔道とか体操とかいろいろあるなかで、どういうわけか野球はなかった。サッカーを選んだのは母親の勧めでしたね。幼稚園自体がクラブチームを持ってたのも大きかったと思うし、これなら一生懸命やるだろうと考えたんかもしれません。当時の大阪はなんだかんだで野球。とくに南部はサッカーが盛んではないはずやのに、通ってた幼稚園がうまいことサッカーに力を入れてた。いま思えば、そういう巡り合わせだったのかなと」
 

 タイミングも良かった。青英学園サッカークラブが誕生したのは、ちょうど稲本が5歳の時だ。一般的な大阪の家庭ならまず第一に思い浮かべる「野球」がそこになく、小6まで一貫して指導してくれるサッカークラブが新たに発足した。ふたつの偶然が、浪速の怪童を誕生させたのだ(少し大袈裟かもしれない)。
 
 やりたくて始めたわけではないサッカーだったが、潤一少年は瞬く間にその虜になったという。
 
「特別なクラブじゃなかった。週に何回かの練習でしたけど、かなり厳しかった。当時の大阪のサッカーはどこもそんな感じだったんじゃないですかね。根性はつきました。でもそんなのは気にならんくらいボールを蹴ってるのが楽しくて、すぐにのめり込みました」
 
 青英学園は創設まもないこともあり、小学校のチームは慢性的に人数が少なかった。とくに高学年は一握りしかいない。身体が大きく、頭角を現わしていた稲本はつねに上のカテゴリーの試合に出場した。これがなかなかどうして、辛い日々だったようだ。
 
「3、4年の時ですかね。5、6年がおらんから、毎回上級生を相手にして歯が立たず、負けてばっかりやった。そらぜんぜん面白くないですよ。キツいばっかりでね。ぶつかっても弾き飛ばされるばっかりやから。ただ、そこでやり続けたから、自分らが上になった時はかなり強くなってた。そうなってくるとね、やっぱり楽しいんですよ。どんどん勝てるようになって、バンバン点も取れたし。じつはストライカーやったんです。ドカーン系やけど、足もそこそこ速かった」
 
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