「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」 。
首都ワガドゥグのホテルは国内最高級だったが、設備は必要最低限の実に質素なものだった。赤道直下の猛烈な暑さの中でクーラーが効かず、食材はすべて現地調達で、500キロ離れた第2の都市ボボデュラッソーへは、オンボロバスで移動した。
日中は痛いほどの日差しだから、長時間の練習はできない。トルシエは時間さえあれば選手たちを街中の散策に連れ出し、皇帝の謁見や孤児院の訪問、大統領が所有する動物園(ほぼ放し飼い)の見学など、規格外のアトラクションを次から次へと用意した。ちなみに小笠原は、練習に飛び入り参加したブルキナファソ皇帝とPKで対決。装備万全でGKに入ったエンペラーの裏をものの見事に突いた。
ブルキナファソでの1週間は、小笠原の脳裏にも強烈な記憶として刻まれている。
「普通に現地のものを食べてたよね。ハエのたかってる肉で、びちゃびちゃの黒い米を取って、これ本当に大丈夫なのかよとか言いながら。シャワーは水自体が出ないから、ペットボトルの水で身体を拭いてたな。モトと同部屋だったんだけど、クーラーが効かないから換気扇を回すわけ。それが猛烈にうるさくて、でも止めると息苦しくなる。だから俺もモトもずっと寝不足だった。
でもさ、すべて慣れちゃえばなんてことなかった。サッカーするためには食べなきゃいけないわけで、じゃないと戦えない。朝5時に起きて、ビスケットだけ食べてトレーニングとか、なんの意味があるんだって思ったけど、それをやっちゃえば何時に起きろって言われてもへっちゃらになる。トルシエはそういうのを伝えたかったんだと思う。
あの経験があるから、その後は世界のどの国のどんな場所に行ってもぜんぜん大丈夫だった。いきなりナイジェリアだったらきっとキツかっただろうけど、俺らはブルキナを経験してたから、居心地がいいくらいに感じてたもんね」
ちょっとしたエピソードがある。
そのブルキナファソで、小笠原は播戸竜二と散歩をしていた。すると現地のひとが「こっちに来い」と手招きしてくる。なんと両人は普通の民家にお邪魔したという。怖いもの知らずだ。
「どんな生活してるんだろうって、すごく興味があって。おいあがれよって言ってもらって中に入ったら、いきなりライオンの毛皮が敷いてあって『俺が撃って捕ったんだ』って言うわけ。『ホントかよ!?』って感じだけどさ、なかなか遠征で現地の家になんて入れないでしょ。面白かったね、触れられて。それくらいしか娯楽がなかったってのもある。暇すぎて。テレビもなにを言ってるか分からないし、インターネットとかない時代だから。本当にいい経験をさせてもらった」
2か月後、ワールドユースの檜舞台に立つ。小笠原は自身初の世界大会で、レギュラーポジションを掴んでいた。まるで叶わないと思っていた小野、本山とともに、スタメンを飾ったのだ。
そして大会直前、トルシエは小笠原に驚きの指示を伝える。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」
ミツオは呑み込み、黙って受け入れた。
<♯3につづく>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※6月28日配信予定の次回は、ワールドユースの快進撃を余すところなく語ってもらい、悩み抜いた末に決断した鹿島アントラーズ入団の裏話も公開。ファン必読のレアエピソードがまたしても飛び出します。こうご期待!
―――――――――――◆―――――――――◆――――――――――――
PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/506試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月22日現在。
日中は痛いほどの日差しだから、長時間の練習はできない。トルシエは時間さえあれば選手たちを街中の散策に連れ出し、皇帝の謁見や孤児院の訪問、大統領が所有する動物園(ほぼ放し飼い)の見学など、規格外のアトラクションを次から次へと用意した。ちなみに小笠原は、練習に飛び入り参加したブルキナファソ皇帝とPKで対決。装備万全でGKに入ったエンペラーの裏をものの見事に突いた。
ブルキナファソでの1週間は、小笠原の脳裏にも強烈な記憶として刻まれている。
「普通に現地のものを食べてたよね。ハエのたかってる肉で、びちゃびちゃの黒い米を取って、これ本当に大丈夫なのかよとか言いながら。シャワーは水自体が出ないから、ペットボトルの水で身体を拭いてたな。モトと同部屋だったんだけど、クーラーが効かないから換気扇を回すわけ。それが猛烈にうるさくて、でも止めると息苦しくなる。だから俺もモトもずっと寝不足だった。
でもさ、すべて慣れちゃえばなんてことなかった。サッカーするためには食べなきゃいけないわけで、じゃないと戦えない。朝5時に起きて、ビスケットだけ食べてトレーニングとか、なんの意味があるんだって思ったけど、それをやっちゃえば何時に起きろって言われてもへっちゃらになる。トルシエはそういうのを伝えたかったんだと思う。
あの経験があるから、その後は世界のどの国のどんな場所に行ってもぜんぜん大丈夫だった。いきなりナイジェリアだったらきっとキツかっただろうけど、俺らはブルキナを経験してたから、居心地がいいくらいに感じてたもんね」
ちょっとしたエピソードがある。
そのブルキナファソで、小笠原は播戸竜二と散歩をしていた。すると現地のひとが「こっちに来い」と手招きしてくる。なんと両人は普通の民家にお邪魔したという。怖いもの知らずだ。
「どんな生活してるんだろうって、すごく興味があって。おいあがれよって言ってもらって中に入ったら、いきなりライオンの毛皮が敷いてあって『俺が撃って捕ったんだ』って言うわけ。『ホントかよ!?』って感じだけどさ、なかなか遠征で現地の家になんて入れないでしょ。面白かったね、触れられて。それくらいしか娯楽がなかったってのもある。暇すぎて。テレビもなにを言ってるか分からないし、インターネットとかない時代だから。本当にいい経験をさせてもらった」
2か月後、ワールドユースの檜舞台に立つ。小笠原は自身初の世界大会で、レギュラーポジションを掴んでいた。まるで叶わないと思っていた小野、本山とともに、スタメンを飾ったのだ。
そして大会直前、トルシエは小笠原に驚きの指示を伝える。
「小野は攻撃が7、守備が3。お前は攻撃が3、守備が7だ」
ミツオは呑み込み、黙って受け入れた。
<♯3につづく>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※6月28日配信予定の次回は、ワールドユースの快進撃を余すところなく語ってもらい、悩み抜いた末に決断した鹿島アントラーズ入団の裏話も公開。ファン必読のレアエピソードがまたしても飛び出します。こうご期待!
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/506試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年6月22日現在。