ミハイロビッチとの関係を完全に修復するのは……。
そのフィオレンティーナ戦における本田のスタッツは、パス成功数が27本(チームトップ)、走行距離が10.839km、1対1勝利が3回、ボール奪取が8回だった。試合後、キャプテンのリッカルド・モントリーボは本田をこう賞賛していた
「本田はミラニスタ(ミラン・ファン)から愛されていないかもしれない。しかし、彼の集中力や戦術への理解は素晴らしい。僕らにとっては重要な存在だ。守備もまるでディフェンダーのようにやってくれる」
しかし、モントリーボが言及したサポーターとの不仲も、今は昔のことのようだ。フィオレンティーナ戦では、ついにミラニスタから拍手が巻き起こったのだ。ブーイングばかり浴びていた数か月前には考えられなかったことである。
実際、本田は試合を重ねるごとに安定感を取り戻し、再びチームとファンの信頼を得ようとしている。いまや4-4-2の中盤右サイドは彼のものだ。ライバルだったアレッシオ・チェルチの退団が決定的(1月20日現在でジェノア移籍が濃厚)なうえ、新戦力のケビン=プリンス・ボアテングはいまのところセカンドトップや左サイドで起用されている。
もちろん、2月1日まで冬のメルカートは開いており、これからライバルが加入する可能性は否定できない。さらに、ミハイロビッチはフィオレンティーナ戦後に「怪我人が全員帰ってきたら、4-3-1-2に戻すことを考えている」とシステム変更も示唆している。しかし、本田が今のプレーレベルを維持できれば、第ニ期のような完全なバックアッパーのような扱いは受けないだろう。
とはいえ、これまで本田を何度も冷遇してきたミハイロビッチとの関係を、完全に修復するのは難しいかもしれない。フィオレンティーナ戦後のミラン・ベンチを抜いたテレビカメラは、そのことを如実に物語っていた。
ミハイロビッチはかなりの上機嫌で選手たちとハグをし合い、ハイタッチをして回っていたが、それに対する本田のリアクションはかなり淡白だった。指揮官に肩を抱かれたものの、足を止めずに別の方向に歩き出し、目を合わせることすらしなかったのだ。
それでも、ミハイロビッチは上機嫌だった。当然だろう。本田をはじめとする選手たちのおかげで、またしてもクビを免れたのだから……。
文:マルコ・パソット(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)
翻訳:利根川晶子
【著者プロフィール】
Marco PASOTTO(マルコ・パソット)/1972年2月20日、トリノ生まれ。95年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙で執筆活動を始める。2002年から8年間ウディネーゼを追い、10年より番記者としてミランに密着。ミランとともにある人生を送っている。
「本田はミラニスタ(ミラン・ファン)から愛されていないかもしれない。しかし、彼の集中力や戦術への理解は素晴らしい。僕らにとっては重要な存在だ。守備もまるでディフェンダーのようにやってくれる」
しかし、モントリーボが言及したサポーターとの不仲も、今は昔のことのようだ。フィオレンティーナ戦では、ついにミラニスタから拍手が巻き起こったのだ。ブーイングばかり浴びていた数か月前には考えられなかったことである。
実際、本田は試合を重ねるごとに安定感を取り戻し、再びチームとファンの信頼を得ようとしている。いまや4-4-2の中盤右サイドは彼のものだ。ライバルだったアレッシオ・チェルチの退団が決定的(1月20日現在でジェノア移籍が濃厚)なうえ、新戦力のケビン=プリンス・ボアテングはいまのところセカンドトップや左サイドで起用されている。
もちろん、2月1日まで冬のメルカートは開いており、これからライバルが加入する可能性は否定できない。さらに、ミハイロビッチはフィオレンティーナ戦後に「怪我人が全員帰ってきたら、4-3-1-2に戻すことを考えている」とシステム変更も示唆している。しかし、本田が今のプレーレベルを維持できれば、第ニ期のような完全なバックアッパーのような扱いは受けないだろう。
とはいえ、これまで本田を何度も冷遇してきたミハイロビッチとの関係を、完全に修復するのは難しいかもしれない。フィオレンティーナ戦後のミラン・ベンチを抜いたテレビカメラは、そのことを如実に物語っていた。
ミハイロビッチはかなりの上機嫌で選手たちとハグをし合い、ハイタッチをして回っていたが、それに対する本田のリアクションはかなり淡白だった。指揮官に肩を抱かれたものの、足を止めずに別の方向に歩き出し、目を合わせることすらしなかったのだ。
それでも、ミハイロビッチは上機嫌だった。当然だろう。本田をはじめとする選手たちのおかげで、またしてもクビを免れたのだから……。
文:マルコ・パソット(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)
翻訳:利根川晶子
【著者プロフィール】
Marco PASOTTO(マルコ・パソット)/1972年2月20日、トリノ生まれ。95年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙で執筆活動を始める。2002年から8年間ウディネーゼを追い、10年より番記者としてミランに密着。ミランとともにある人生を送っている。