「ロッシとはサッカーにおけるモナリザだ」
大会後、パオロのパスの所有権は注目の的となった。半分はユベントス、半分をヴィチェンツァが持っていて、どちらも相手の持つ半分のパスを買い取りたがったが、金額で全く折り合いがつかない。ついにはサッカー協会介入のもと、入札が行われることとなった。残りのパスに幾らをつけるか金額を書いて、封をするのだ。
協会本部で封が切られると、ユベントスのつけた値は8億リラだったが、ヴィチェンツァはなんと26億1200万リラだった。とんでもない額についてヴィチェンツァの会長ファリーナはこう説明した。
「サッカーとは芸術で、ロッシとはレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザだ」
しかし、すべては望み通りにはいかなかった。ヴィチェンツァはその後すぐにまたセリエBに降格し、パオロはペルージャに売られる。おまけにペルージャではある試合で八百長をしたと(彼はその試合で2ゴールを決めているのにもかかわらず)訴えられた。
パオロ自身は終始無実を主張していたが、スポーツ裁判所は彼に2年の出場停止を言い渡した。こうなると現金なもので、もう誰もパオロに見向きもしなくなった……。そう、ユベントスを除いては。
ユーべは、彼が試合に出られないのを承知でパオロと契約し、練習に参加させた。もう一人、パオロのことを忘れていない者がいた。ベアルゾットだ。スペインW杯に向けて準備を進めていた彼は、パオロにこう約束した。
「必ず君を連れて行く」
こうして1982年4月、晴れて出場停止処分が解けると、ロッシはユベントスで3試合をプレーしたのち、代表に合流した。これに対する非難は激しかったが、ベアルゾットは気にしなかった。ただ長い間試合に出ていなかった彼のコンディションが良いわけはなく、最初の数試合では残酷にもそれが顕著に露呈された。
しかし、ベアルゾットは頑固だった。そしてその信頼に応えるかのように、パオロは突如覚醒する。この大会で最強の呼び声が高かったブラジル相手にハットトリックをマークしたのを皮切りに、ポーランド戦では2ゴール、そして決勝のドイツ戦では1ゴールを奪取。大会得点王に輝く活躍で、アッズーリを優勝に導いた。パブリートは伝説となった。ちなみに、その年のバロンドールも受賞。イタリア人としてはジャンニ・リベラに次ぐ2人目の栄誉だった。
協会本部で封が切られると、ユベントスのつけた値は8億リラだったが、ヴィチェンツァはなんと26億1200万リラだった。とんでもない額についてヴィチェンツァの会長ファリーナはこう説明した。
「サッカーとは芸術で、ロッシとはレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザだ」
しかし、すべては望み通りにはいかなかった。ヴィチェンツァはその後すぐにまたセリエBに降格し、パオロはペルージャに売られる。おまけにペルージャではある試合で八百長をしたと(彼はその試合で2ゴールを決めているのにもかかわらず)訴えられた。
パオロ自身は終始無実を主張していたが、スポーツ裁判所は彼に2年の出場停止を言い渡した。こうなると現金なもので、もう誰もパオロに見向きもしなくなった……。そう、ユベントスを除いては。
ユーべは、彼が試合に出られないのを承知でパオロと契約し、練習に参加させた。もう一人、パオロのことを忘れていない者がいた。ベアルゾットだ。スペインW杯に向けて準備を進めていた彼は、パオロにこう約束した。
「必ず君を連れて行く」
こうして1982年4月、晴れて出場停止処分が解けると、ロッシはユベントスで3試合をプレーしたのち、代表に合流した。これに対する非難は激しかったが、ベアルゾットは気にしなかった。ただ長い間試合に出ていなかった彼のコンディションが良いわけはなく、最初の数試合では残酷にもそれが顕著に露呈された。
しかし、ベアルゾットは頑固だった。そしてその信頼に応えるかのように、パオロは突如覚醒する。この大会で最強の呼び声が高かったブラジル相手にハットトリックをマークしたのを皮切りに、ポーランド戦では2ゴール、そして決勝のドイツ戦では1ゴールを奪取。大会得点王に輝く活躍で、アッズーリを優勝に導いた。パブリートは伝説となった。ちなみに、その年のバロンドールも受賞。イタリア人としてはジャンニ・リベラに次ぐ2人目の栄誉だった。
その後、ユーベでもスクデット、カップ戦優勝と栄光の日々が続いた。しかし、彼の膝は相変わらず華奢でハードなプレーに耐えられず、ミラン、ヴィチェンツァとプレーしたあとに、31歳という若さで、ヴェローナで引退した。
引退後はサッカーの現場からは離れたものの、W杯優勝メンバー(多くはユベントスのチームメイトでもあった)とはその後もずっと友情が続いていた。また自分のルーツであるトスカーナも忘れてはおらず、そこでアグリツーリズムを開きワインやオリーブオイルを製造していた。最初の結婚で生まれた息子のアレッサンドロはもう40歳近くになる。そして、2度目の妻との間に生まれたのが、葬儀で涙を誘った2人の娘である。
亡くなる前、しばらく彼と会ってはいなかったが、いくつもの局から声のかかる人気のスポーツ解説者でもあったので、テレビを点ければいつでもあのパブリートの笑顔に再会できると思っていた。もうそれが見られないということが、いまだに信じられない。
文●パオロ・フォルコリン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
Paolo FORCOLIN(パオロ・フォルコリン)/ヴェネツィア生まれ。いくつかの新聞や雑誌を経て、1979年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙の記者に。まずは北部エリアを担当し、その後はユベントスの番記者を約30年に渡って務める。デル・ピエロやブッフォン、インザーギなどと親交を深めた。現在はフリーランスとして活躍。著書にデル・ピエロの伝記、ユーベの近代史を描いた『飛翔』など
引退後はサッカーの現場からは離れたものの、W杯優勝メンバー(多くはユベントスのチームメイトでもあった)とはその後もずっと友情が続いていた。また自分のルーツであるトスカーナも忘れてはおらず、そこでアグリツーリズムを開きワインやオリーブオイルを製造していた。最初の結婚で生まれた息子のアレッサンドロはもう40歳近くになる。そして、2度目の妻との間に生まれたのが、葬儀で涙を誘った2人の娘である。
亡くなる前、しばらく彼と会ってはいなかったが、いくつもの局から声のかかる人気のスポーツ解説者でもあったので、テレビを点ければいつでもあのパブリートの笑顔に再会できると思っていた。もうそれが見られないということが、いまだに信じられない。
文●パオロ・フォルコリン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
Paolo FORCOLIN(パオロ・フォルコリン)/ヴェネツィア生まれ。いくつかの新聞や雑誌を経て、1979年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙の記者に。まずは北部エリアを担当し、その後はユベントスの番記者を約30年に渡って務める。デル・ピエロやブッフォン、インザーギなどと親交を深めた。現在はフリーランスとして活躍。著書にデル・ピエロの伝記、ユーベの近代史を描いた『飛翔』など