幼少期はユベンティーノだったパオロ
ミランでの9年目となった62-63シーズンは、チャンピオンズ・カップで57-58シーズンに続いて2度目の決勝進出を果たす。
前回のファイナルではアルフレッド・ディ・ステファノが君臨した伝説的なレアル・マドリーに苦杯を喫していたが、この時は「黒豹」ことエウゼビオを擁するベンフィカを2-1で撃破。イタリアのクラブとして初めてヨーロッパの頂点に立つことになる。その舞台となったロンドンのウェンブリーで主将のチェーザレは、エリザベス女王から授けられた優勝カップを天に掲げたのだった。
ちょうどその同じ年に31歳で結婚したチェーザレは、その後に6人の子宝に恵まれる。最初の3人が娘で下の3人が息子。その長男が68年生まれのパオロだ。現役を引退したチェーザレは、フォッジャ、テルナーナ、パルマなどのクラブで監督を務め、その後はイタリア代表のテクニカルスタッフとして、82年W杯の優勝に貢献する。
そんな父の背中を見ながら育ったパオロは、10歳になった時に父から「入団テストを受けるならミランとインテル、どっちがいい?」と尋ねられ、「ミラン」と答える。それ以来30年に渡って続くことになる、「ロッソネーロ一筋」のサッカー人生の始まりだった。
ちなみに、子供時代のパオロは実はミラニスタでもインテリスタでもなく、ユベンティーノだった。きっかけは、78年W杯のイタリア代表に強い憧れを持ったこと。当時のアッズーリは大半がユベントスの選手で占められていた関係もあり、ごく自然にユーベを応援するようになったという。とはいえ、ミランの育成部門でプレーを続けるうちに、その心が「赤と黒」に染まっていったのもまた自然な流れだった。
前回のファイナルではアルフレッド・ディ・ステファノが君臨した伝説的なレアル・マドリーに苦杯を喫していたが、この時は「黒豹」ことエウゼビオを擁するベンフィカを2-1で撃破。イタリアのクラブとして初めてヨーロッパの頂点に立つことになる。その舞台となったロンドンのウェンブリーで主将のチェーザレは、エリザベス女王から授けられた優勝カップを天に掲げたのだった。
ちょうどその同じ年に31歳で結婚したチェーザレは、その後に6人の子宝に恵まれる。最初の3人が娘で下の3人が息子。その長男が68年生まれのパオロだ。現役を引退したチェーザレは、フォッジャ、テルナーナ、パルマなどのクラブで監督を務め、その後はイタリア代表のテクニカルスタッフとして、82年W杯の優勝に貢献する。
そんな父の背中を見ながら育ったパオロは、10歳になった時に父から「入団テストを受けるならミランとインテル、どっちがいい?」と尋ねられ、「ミラン」と答える。それ以来30年に渡って続くことになる、「ロッソネーロ一筋」のサッカー人生の始まりだった。
ちなみに、子供時代のパオロは実はミラニスタでもインテリスタでもなく、ユベンティーノだった。きっかけは、78年W杯のイタリア代表に強い憧れを持ったこと。当時のアッズーリは大半がユベントスの選手で占められていた関係もあり、ごく自然にユーベを応援するようになったという。とはいえ、ミランの育成部門でプレーを続けるうちに、その心が「赤と黒」に染まっていったのもまた自然な流れだった。
育成部門では、まずは右ウイング、その後に右SBを務める。その際立ったタレントに注目したリードホルム監督によって弱冠16歳で引き上げられたトップチームにはしかし、マウロ・タッソッティという偉大な右SBがすでに君臨していた。そのためパオロは左SBにコンバートされる。やがて「世界最高の左SB」と呼ばれるキャリアの始まりだった。
まだ18歳だった85-86シーズンから主力に定着すると、アリーゴ・サッキ、ファビオ・カペッロという名将の下で、80年代末から90年代半ばにかけてセリエAを5回、CLを3回、トヨタカップを2回も勝ち取る黄金時代を主力として支える。
右からタッソッティ、アレッサンドロ・コスタクルタ、フランコ・バレージ、マルディーニと並ぶ4バックは鉄壁の守りを誇ったうえ、タッソッティとマルディーニのオーバーラップによる攻撃参加は、あらゆる敵にとって大きな脅威となった。
97年に引退したバレージからキャプテンマークを受け継ぎ、父に続いて親子2代でミランの主将となったパオロは、30代になると主戦場をCBに移し、ミランに新たな黄金時代をもたらすことになる。
かつてチームメイトだったカルロ・アンチェロッティ監督の下、02-03シーズンには9年ぶりのCL優勝を主将として勝ち取った。その舞台となったのはマンチェスターのオールド・トラフォード。実に40年前に父が優勝カップを天に掲げたのと同じイングランドの地だったのは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。
パオロが主将を務める「アンチェロッティのミラン」は、その後も欧州トップレベルの競争力を保つ。CL決勝では、04-05シーズンに3-0から追いつかれPK戦の末に敗れる「イスタンブールの悲劇」を経験したが、同じリバプールが相手だった06-07シーズンには2-0で雪辱を果たす。38歳を迎えていたパオロは、膝の怪我を押してピッチに立ち、パートナーのアレッサンドロ・ネスタとともにリバプール攻撃陣を完封。自身にとって5度目、主将として2度目の欧州制覇を果たしたのだった。
まだ18歳だった85-86シーズンから主力に定着すると、アリーゴ・サッキ、ファビオ・カペッロという名将の下で、80年代末から90年代半ばにかけてセリエAを5回、CLを3回、トヨタカップを2回も勝ち取る黄金時代を主力として支える。
右からタッソッティ、アレッサンドロ・コスタクルタ、フランコ・バレージ、マルディーニと並ぶ4バックは鉄壁の守りを誇ったうえ、タッソッティとマルディーニのオーバーラップによる攻撃参加は、あらゆる敵にとって大きな脅威となった。
97年に引退したバレージからキャプテンマークを受け継ぎ、父に続いて親子2代でミランの主将となったパオロは、30代になると主戦場をCBに移し、ミランに新たな黄金時代をもたらすことになる。
かつてチームメイトだったカルロ・アンチェロッティ監督の下、02-03シーズンには9年ぶりのCL優勝を主将として勝ち取った。その舞台となったのはマンチェスターのオールド・トラフォード。実に40年前に父が優勝カップを天に掲げたのと同じイングランドの地だったのは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。
パオロが主将を務める「アンチェロッティのミラン」は、その後も欧州トップレベルの競争力を保つ。CL決勝では、04-05シーズンに3-0から追いつかれPK戦の末に敗れる「イスタンブールの悲劇」を経験したが、同じリバプールが相手だった06-07シーズンには2-0で雪辱を果たす。38歳を迎えていたパオロは、膝の怪我を押してピッチに立ち、パートナーのアレッサンドロ・ネスタとともにリバプール攻撃陣を完封。自身にとって5度目、主将として2度目の欧州制覇を果たしたのだった。