着替えもないままホテルに4日間も缶詰めに。
ちなみに、エトーは交渉を進めている段階から、自分の後継者だと考える18歳のカメルーン代表FW、ファブリス・オリンガを獲得するよう、フェレーロを説得していた。
サンプドリアはその要望を叶え、マラガのカンテラ(下部組織)で育ち、ベルギーとキプロスで武者修行を積んできたこの若者の保有権を確保したが、外国人枠に余裕がないこともあってルーマニアのヴィートルル・コンスタンチャ(ゲオルゲ・ハジがオーナー兼監督のクラブ)に6月までレンタルに出している。
エトーは来シーズン、このオリンガと2トップを組むのが望みだという。同じく今冬に加入したムリエルが黙ってはいないだろうが。
そのムリエルの獲得交渉を巡るドタバタでも、サンプドリアは話題をさらった。
ウディネーゼとの間で一旦合意に達して、ジェノバでムリエルのメディカルチェックを行なったところ、故障中の部位の診断で所見に違いが出て(ウディネーゼは全治15日、サンプドリアは全治40日)、サンプドリア側が移籍金の引き下げを要求。合意が反故になりかねない状況に陥ったのだ。
ウディネーゼはムリエルに戻ってくるよう求めたが、移籍を成立させたい代理人のアレッサンドロ・ルッチは、ウディネーゼにプレッシャーをかけるためにもジェノバのホテルに留まるよう指示。それから4日もの間、ムリエルは着替えもないままホテルに缶詰めになって、両クラブが改めて合意するのを待つ羽目になった。
ようやく合意に至った時、ムリエルは私の携帯電話に「これでやっと外の空気が吸えるよ」というメッセージを送ってきた。
普通ではなかったのがその合意の内容である。ウディネーゼは値引きを受け入れる代わりに、ムリエルだけでなくDFのコーダも無償で獲得するようサンプドリアに求めてこの条件を呑ませたのだ。
コーダとの契約はあと2年半残っていたが、今シーズン就任したストラマッチョーニ監督が評価していないため、厄介払いする形でサンプドリアに押しつけた格好だ。
文:ジャンルカ・ディ・マルツィオ
翻訳:片野道郎
【著者プロフィール】
ジャンルカ・ディ・マルツィオ
1974年3月28日、ナポリ近郊の町に生まれる。父は70~90年代にナポリ、ジェノア、レッチェなどで監督を歴任し、現在はTVコメンテーターのジャンニ・ディ・マルツィオ。選手としては才能に恵まれず、ジャーナリストを志し、パドバ大学在学中の94年に地元のTV局でキャリアをスタート。04年から『スカイ・イタリア』に所属する。
父を通して得た人脈を活かしてカルチョの世界に広いネットワークを築き、移籍マーケットの専門記者という独自のフィールドを開拓。この分野ではイタリアの第一人者で、13年1月にグアルディオラのバイエルン入りをスクープしてからは、他の欧州諸国でも注目を集めている。
サンプドリアはその要望を叶え、マラガのカンテラ(下部組織)で育ち、ベルギーとキプロスで武者修行を積んできたこの若者の保有権を確保したが、外国人枠に余裕がないこともあってルーマニアのヴィートルル・コンスタンチャ(ゲオルゲ・ハジがオーナー兼監督のクラブ)に6月までレンタルに出している。
エトーは来シーズン、このオリンガと2トップを組むのが望みだという。同じく今冬に加入したムリエルが黙ってはいないだろうが。
そのムリエルの獲得交渉を巡るドタバタでも、サンプドリアは話題をさらった。
ウディネーゼとの間で一旦合意に達して、ジェノバでムリエルのメディカルチェックを行なったところ、故障中の部位の診断で所見に違いが出て(ウディネーゼは全治15日、サンプドリアは全治40日)、サンプドリア側が移籍金の引き下げを要求。合意が反故になりかねない状況に陥ったのだ。
ウディネーゼはムリエルに戻ってくるよう求めたが、移籍を成立させたい代理人のアレッサンドロ・ルッチは、ウディネーゼにプレッシャーをかけるためにもジェノバのホテルに留まるよう指示。それから4日もの間、ムリエルは着替えもないままホテルに缶詰めになって、両クラブが改めて合意するのを待つ羽目になった。
ようやく合意に至った時、ムリエルは私の携帯電話に「これでやっと外の空気が吸えるよ」というメッセージを送ってきた。
普通ではなかったのがその合意の内容である。ウディネーゼは値引きを受け入れる代わりに、ムリエルだけでなくDFのコーダも無償で獲得するようサンプドリアに求めてこの条件を呑ませたのだ。
コーダとの契約はあと2年半残っていたが、今シーズン就任したストラマッチョーニ監督が評価していないため、厄介払いする形でサンプドリアに押しつけた格好だ。
文:ジャンルカ・ディ・マルツィオ
翻訳:片野道郎
【著者プロフィール】
ジャンルカ・ディ・マルツィオ
1974年3月28日、ナポリ近郊の町に生まれる。父は70~90年代にナポリ、ジェノア、レッチェなどで監督を歴任し、現在はTVコメンテーターのジャンニ・ディ・マルツィオ。選手としては才能に恵まれず、ジャーナリストを志し、パドバ大学在学中の94年に地元のTV局でキャリアをスタート。04年から『スカイ・イタリア』に所属する。
父を通して得た人脈を活かしてカルチョの世界に広いネットワークを築き、移籍マーケットの専門記者という独自のフィールドを開拓。この分野ではイタリアの第一人者で、13年1月にグアルディオラのバイエルン入りをスクープしてからは、他の欧州諸国でも注目を集めている。