親善試合で二度敗れていた韓国との決勝は延長の末に…
こうしたなか、最終予選に挑んだ日本。初戦の相手は強豪・サウジアラビアだったが、首尾よく2-1で勝利。チームは勢いに乗った。その後、インド、バングラディシュにも連勝し、世界切符のかかる準々決勝・UAE戦を迎えることになった。「95年カタール大会から4大会連続世界大会出場の記録を途切れさせてはいけない」と口を酸っぱくして言い続ける指揮官の熱意に押されたように、日本は開始早々成岡がに先制弾をゲット。阿部が前半のうちにPKで追加点を奪う。そして後半には成岡がダメ押しに成功。終わってみれば3-0の快勝で、最低限のノルマは果たした。
次なる目標はアジア制覇。だが、準決勝のウズベキスタン戦は大苦戦を強いられる。相手に先手を取られ、坂田が同点弾をゲット。そのまま120分戦っても決着がつかず、PK戦へと突入する。そこで大仕事をしたのが守護神・川島だ。相手の1・2番手を立て続けにセーブし、勝利の立役者となったのだ。
「PKを止めたのはよく覚えています。アジア最終予選が初めてで、その難しさを知らなかった分、無心でやれたのが大きかったと思います。あの時のチームは選手個々の能力も高かったし、今ちゃんや坂田みたいにJで試合に出ている選手も何人かいた。実力は十分あるという確信はありました」(川島)
しかし、決勝・韓国戦は一筋縄ではいかなかった。0-0のまま再び延長戦にもつれ込んだことで、2試合連続120分ゲームの疲労が一気に押し寄せてきたのだ。その隙を突かれて延長で宿敵にミドル弾を決められてしまう。当時の日本は親善試合で韓国に2度負けていたが、最終予選でもその壁を打ち破ることはできなかった。「この悔しさを晴らす」という想いが彼らの大きなモチベーションになったのだ。
世界大会は2003年3~4月の予定で、強化期間は半年しかなかった。が、イラク情勢悪化で大会が延期となり、11~12月開催へとずれ込んだ。田嶋体制の頃から軸を担っていた川島、今野、坂田やU-17経験組は不動だったが、2003年シーズンに頭角を現わした近藤直也(東京V)や栗原勇蔵(横浜クラブシップ・キャプテン)、鈴木規郎(現代理人)らが台頭。メンバーの半数近くが入れ替わった。
とりわけ大きかったのが、国見高3年の平山相太(仙台大コーチ)の飛び級招集だ。
「平山はキープ力が抜群で、どんなボールでも収めてくれるんで、攻撃がすごく落ち着きました。スピードはそこまでなかったけど、とにかく冷静で、堂々としていて、最前線にいるだけで頼もしかったですね」と川島が太鼓判を押すほど、存在感を高めていった。それでも大熊監督は慎重な姿勢を示し、本番では未知数の高校生をいきなり先発起用せず、徐々に使っていく手法を採った。
次なる目標はアジア制覇。だが、準決勝のウズベキスタン戦は大苦戦を強いられる。相手に先手を取られ、坂田が同点弾をゲット。そのまま120分戦っても決着がつかず、PK戦へと突入する。そこで大仕事をしたのが守護神・川島だ。相手の1・2番手を立て続けにセーブし、勝利の立役者となったのだ。
「PKを止めたのはよく覚えています。アジア最終予選が初めてで、その難しさを知らなかった分、無心でやれたのが大きかったと思います。あの時のチームは選手個々の能力も高かったし、今ちゃんや坂田みたいにJで試合に出ている選手も何人かいた。実力は十分あるという確信はありました」(川島)
しかし、決勝・韓国戦は一筋縄ではいかなかった。0-0のまま再び延長戦にもつれ込んだことで、2試合連続120分ゲームの疲労が一気に押し寄せてきたのだ。その隙を突かれて延長で宿敵にミドル弾を決められてしまう。当時の日本は親善試合で韓国に2度負けていたが、最終予選でもその壁を打ち破ることはできなかった。「この悔しさを晴らす」という想いが彼らの大きなモチベーションになったのだ。
世界大会は2003年3~4月の予定で、強化期間は半年しかなかった。が、イラク情勢悪化で大会が延期となり、11~12月開催へとずれ込んだ。田嶋体制の頃から軸を担っていた川島、今野、坂田やU-17経験組は不動だったが、2003年シーズンに頭角を現わした近藤直也(東京V)や栗原勇蔵(横浜クラブシップ・キャプテン)、鈴木規郎(現代理人)らが台頭。メンバーの半数近くが入れ替わった。
とりわけ大きかったのが、国見高3年の平山相太(仙台大コーチ)の飛び級招集だ。
「平山はキープ力が抜群で、どんなボールでも収めてくれるんで、攻撃がすごく落ち着きました。スピードはそこまでなかったけど、とにかく冷静で、堂々としていて、最前線にいるだけで頼もしかったですね」と川島が太鼓判を押すほど、存在感を高めていった。それでも大熊監督は慎重な姿勢を示し、本番では未知数の高校生をいきなり先発起用せず、徐々に使っていく手法を採った。