現実をよく理解していた井原は、年下の選手たちを上から押さえつけるようなことは一切しなかった
当時のチームを見てみると、井原、中山雅史(沼津)の「ドーハ組」ら30代を頂点に、山口素弘(名古屋アカデミーダイレクター)、相馬直樹(鹿島コーチ)、名波浩(解説者)ら「20代後半世代」、川口能活(日本協会アスリート委員長)や城彰二(解説者)、中田英寿ら「アトランタ世代」、さらにその下に最年少18歳の小野伸二(琉球)という年齢構成。それを41歳の青年指揮官である岡田監督が束ねるという形だった。
このうちアトランタ世代だけは五輪で国際舞台を経験。「マイアミの奇跡」などの修羅場を経て、世界トップの老獪さや鋭さを肌で感じていた。「僕らアトランタ世代は『自分たちが日本の歴史を変えてきた』という自負があった。フランス・ワールドカップアジア最終予選の頃は『俺らの方が上の世代より強い』と考えていたし、『なぜ俺らを使わないのか』とつねに思っていた」と城も鼻息を荒くしていたことがあるが、伸び盛りで勢いに乗る彼らの存在は、当時の岡田ジャパンにとって極めて重要だった。
このうちアトランタ世代だけは五輪で国際舞台を経験。「マイアミの奇跡」などの修羅場を経て、世界トップの老獪さや鋭さを肌で感じていた。「僕らアトランタ世代は『自分たちが日本の歴史を変えてきた』という自負があった。フランス・ワールドカップアジア最終予選の頃は『俺らの方が上の世代より強い』と考えていたし、『なぜ俺らを使わないのか』とつねに思っていた」と城も鼻息を荒くしていたことがあるが、伸び盛りで勢いに乗る彼らの存在は、当時の岡田ジャパンにとって極めて重要だった。
アトランタ世代の能力と経験値を最大限発揮してもらわなければ、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカという難敵には立ち向かえない……。現実をよく理解していた井原は、年下の選手たちを上から押さえつけるようなことは一切しなかった。自らがリハビリに勤しんでいた大会直前も周りの行動を黙って見守り、自主性を尊重し、若い選手たちの背中を押すような雰囲気を作っていた。カズ落選の難局を乗り切るためにも、個性の強い中田や川口が言いたいことを言える風通しのいい環境が必要だという認識があって、彼はそういったスタンスを取り続けたのだろう。
加えて、当時のチームは本番前の短期間で4バックから3バックへの布陣変更を完成させなければならなかった。アルゼンチンのバティストゥータとクラウディオ・ロペス、クロアチアのシュケルとスタニッチという強力2トップを封じるためには、3枚のDFを置いた方がいいという判断があったからだ。そんな中、井原はリベロとして中西永輔(四日市TD)と秋田豊(盛岡監督)の両ストッパーを確実に統率するという大仕事を託されていた。初戦直前に怪我をしたのは誤算以外の何物でもなかったが、ピッチ内外で仲間と意思疎通を重ね、連係構築に力を注ぎ、ギリギリのところで実戦復帰。なんとか本番を迎えることができたのだ。