当時の同僚には香川や柿谷。自分が一番下手なことに気が付いて…
――お父さんを悲しませてまで選んだサッカーの道、プロ選手になれたのはお母さんの母国“日本”でした。
「(日本語が得意じゃない私に代わって)母が履歴書を作って多くのJクラブへ送ってくれて、セレッソ大阪に入ることが出来たんです。同世代にはシンジ(香川真司)、カキタニ(柿谷曜一朗)、デカモリシ(森島康仁)とか代表選手がいっぱい居て。私もU-20NZ代表にも選ばれていた時期で自信があったんですが、練習を重ねるごとに自らが一番下手なことに気が付いて。ホームシックも重なって、毎日寮へ帰って泣いていましたよ」
――とはいえ、インドやオーストラリアでのプレーを経て、日本(FC岐阜)へ戻られていますよね。
「幾つかの理由はあったのですが、10歳(小学5年生)の時に1年間日本に住んでいてNZへ戻った時、C大阪からガイナーレ鳥取でのシーズン後にNZへ戻った時、日本から環境を変える度にサッカーが上手になっていることに気が付いていたんです。日本は母の母国というだけでなく、私を大人へと成長させてくれた大事な場所なんです」
――なるほど。その後はタイやマレーシアでの活躍が認められてオールホワイツ(サッカーNZ代表の愛称)にも選出。またクラブワールドカップ(2008年日本大会)へも出場されています。
「母国クラブ、ワイタケレ・ユナイテッドが世界で戦うために私を呼んでくれたのですが、久しぶりにNZへ戻って家族や友人たちに会えたこともあって安心してしまって。日本ではクラブワールドカップが認知されていて皆が知る大会でしょうが、当時の私は正直、大会の凄さを分かっていなかった。そして大会が始まる時にはチームメイト皆が成長して私はベンチスタートに。チームの力に成り切れなかったことが思い出の大会です」
――タイでの生活も丸5年になりますね。
「家族も増えて、皆がバンコクでの生活に慣れて楽しんでいます。辛い時期でも一緒に支えてくれたのは家族のお陰、いまは彼らのことを優先に考えながら日々頑張っています」
――そんな海外生活を生き抜くためには何が大事だと感じていますか?
「生活させてもらっている国や人に敬意を持つことだと思います。私は小さい頃から両親に礼儀礼節を厳しく教えられました。そして相手を敬う気持ちを持つようにとも。そういった気持ちがないと、同じ場所で生きさせてもらう仲間として認めてもらえないと思うんです」
「(日本語が得意じゃない私に代わって)母が履歴書を作って多くのJクラブへ送ってくれて、セレッソ大阪に入ることが出来たんです。同世代にはシンジ(香川真司)、カキタニ(柿谷曜一朗)、デカモリシ(森島康仁)とか代表選手がいっぱい居て。私もU-20NZ代表にも選ばれていた時期で自信があったんですが、練習を重ねるごとに自らが一番下手なことに気が付いて。ホームシックも重なって、毎日寮へ帰って泣いていましたよ」
――とはいえ、インドやオーストラリアでのプレーを経て、日本(FC岐阜)へ戻られていますよね。
「幾つかの理由はあったのですが、10歳(小学5年生)の時に1年間日本に住んでいてNZへ戻った時、C大阪からガイナーレ鳥取でのシーズン後にNZへ戻った時、日本から環境を変える度にサッカーが上手になっていることに気が付いていたんです。日本は母の母国というだけでなく、私を大人へと成長させてくれた大事な場所なんです」
――なるほど。その後はタイやマレーシアでの活躍が認められてオールホワイツ(サッカーNZ代表の愛称)にも選出。またクラブワールドカップ(2008年日本大会)へも出場されています。
「母国クラブ、ワイタケレ・ユナイテッドが世界で戦うために私を呼んでくれたのですが、久しぶりにNZへ戻って家族や友人たちに会えたこともあって安心してしまって。日本ではクラブワールドカップが認知されていて皆が知る大会でしょうが、当時の私は正直、大会の凄さを分かっていなかった。そして大会が始まる時にはチームメイト皆が成長して私はベンチスタートに。チームの力に成り切れなかったことが思い出の大会です」
――タイでの生活も丸5年になりますね。
「家族も増えて、皆がバンコクでの生活に慣れて楽しんでいます。辛い時期でも一緒に支えてくれたのは家族のお陰、いまは彼らのことを優先に考えながら日々頑張っています」
――そんな海外生活を生き抜くためには何が大事だと感じていますか?
「生活させてもらっている国や人に敬意を持つことだと思います。私は小さい頃から両親に礼儀礼節を厳しく教えられました。そして相手を敬う気持ちを持つようにとも。そういった気持ちがないと、同じ場所で生きさせてもらう仲間として認めてもらえないと思うんです」