ふたりのエースを欠き、準々決勝で韓国に完敗。
当時すでにC大阪と大分でそれぞれ主力として活躍していたふたりは世代を代表する二枚看板。特に香川は、飛び級で08年北京五輪に出場し、さらには岡田武史監督率いるA代表にも同年のキリンカップで初選出。世代全体を牽引する存在として期待される選手だった。
ところが、である。彼らが突出した結果を残していたことが、皮肉にも仇となる。
金崎は大会直前の国内キャンプにこそ参加したものの、結局、同時期に行なわれたナビスコカップ決勝への出場を優先し、大会は不参加に。香川もまた、大会直後に行なわれるワールドカップ最終予選のカタール戦に臨むメンバーに選出された結果、A代表の活動日程に合わせるため、グループリーグ3試合のみの限定参加となることが決まった。
当時、日本協会の小野剛技術委員長は事の経緯を「(エースである)中村俊輔ならともかく、最年少の香川が途中合流というわけにはいかない」と、A代表優先の方針であることを説明。結局、香川はグループリーグを終えると一度日本に帰国し、A代表に合流した後、再び中東(カタール)に戻るという実に非効率的な動きを強いられた。
それだけではない。当時、鹿児島城西高3年だった大迫勇也についても、牧内監督は「アジアレベルでも通用したと思う」と、その能力を高く評価していたが、高校選手権予選との日程重複により選出が回避されることになった。
年代別の活動が、すべてに優先されるべきとは思わない。だが、U-20ワールドカップ7大会連続出場という結果が、いつしか世界に出られて当たり前という意識を生み、どこかで奢りを招いていたと言われても仕方がない。果たして、結末は惨憺たるものだった。
苦戦の予想されたグループリーグこそ、結果だけを見れば2勝1分けの1位通過。だが、
イランとの第2戦では4点を取って勝利できたのが不思議なくらい一方的に押し込まれるなど、不甲斐ない試合内容に終始した。
結局、勝負の準々決勝で韓国に0-3の完敗。日本の連続出場はほとんど無抵抗のまま、あっけないほど簡単にストップした。
二枚看板に代わって期待された柿谷曜一朗も、グループリーグ初戦のイエメン戦で、それも前半20分に、相手DFに臀部を蹴られて負傷交代。結局、柿谷はグループリーグの残り試合を棒に振ってしまう。
以後、治療と調整に専念した柿谷は準々決勝には間に合い、韓国戦の後半に途中出場。「試合前に監督と話をして、使うと言われていた。身体の準備はできていた」と話すが、チームを救うことはできなかった。
前年にU-17ワールドカップを経験していた柿谷は「世界で成長したところを見せたかった。もっと自分が力を発揮できればという悔しい気持ちが強い」と唇を噛み、なす術なく絶望的な差を見せつけられた敗戦を振り返った。
「思うようなプレーができなかった。もっとシュートを打てたらよかったが、それ以前の問題。1本目、2本目のパスでミスが出ていた。イラン戦やサウジ戦もそれほどいいサッカーはできていなかった。(グループリーグを)1位で突破できたのはよかったが、ミスを素直に受け止められていなかった。なぐさめ合いじゃなく、厳しく言い合ったほうがよかったのかもしれない」
この柿谷の言葉にもあるように、日本はチャンスを作る以前にまともにパスをつなぐことさえできなかった。それほど韓国戦の内容は酷かった。香川がいたら勝てたのか。そう問われれば甚だ疑問ではある。
とはいえ、問題はこの試合の結果うんぬんではなく、香川にとって、U-19代表にとって、さらには日本サッカーの未来にとって、最善の選択がなされたのかどうか、ということだ。
ところが、である。彼らが突出した結果を残していたことが、皮肉にも仇となる。
金崎は大会直前の国内キャンプにこそ参加したものの、結局、同時期に行なわれたナビスコカップ決勝への出場を優先し、大会は不参加に。香川もまた、大会直後に行なわれるワールドカップ最終予選のカタール戦に臨むメンバーに選出された結果、A代表の活動日程に合わせるため、グループリーグ3試合のみの限定参加となることが決まった。
当時、日本協会の小野剛技術委員長は事の経緯を「(エースである)中村俊輔ならともかく、最年少の香川が途中合流というわけにはいかない」と、A代表優先の方針であることを説明。結局、香川はグループリーグを終えると一度日本に帰国し、A代表に合流した後、再び中東(カタール)に戻るという実に非効率的な動きを強いられた。
それだけではない。当時、鹿児島城西高3年だった大迫勇也についても、牧内監督は「アジアレベルでも通用したと思う」と、その能力を高く評価していたが、高校選手権予選との日程重複により選出が回避されることになった。
年代別の活動が、すべてに優先されるべきとは思わない。だが、U-20ワールドカップ7大会連続出場という結果が、いつしか世界に出られて当たり前という意識を生み、どこかで奢りを招いていたと言われても仕方がない。果たして、結末は惨憺たるものだった。
苦戦の予想されたグループリーグこそ、結果だけを見れば2勝1分けの1位通過。だが、
イランとの第2戦では4点を取って勝利できたのが不思議なくらい一方的に押し込まれるなど、不甲斐ない試合内容に終始した。
結局、勝負の準々決勝で韓国に0-3の完敗。日本の連続出場はほとんど無抵抗のまま、あっけないほど簡単にストップした。
二枚看板に代わって期待された柿谷曜一朗も、グループリーグ初戦のイエメン戦で、それも前半20分に、相手DFに臀部を蹴られて負傷交代。結局、柿谷はグループリーグの残り試合を棒に振ってしまう。
以後、治療と調整に専念した柿谷は準々決勝には間に合い、韓国戦の後半に途中出場。「試合前に監督と話をして、使うと言われていた。身体の準備はできていた」と話すが、チームを救うことはできなかった。
前年にU-17ワールドカップを経験していた柿谷は「世界で成長したところを見せたかった。もっと自分が力を発揮できればという悔しい気持ちが強い」と唇を噛み、なす術なく絶望的な差を見せつけられた敗戦を振り返った。
「思うようなプレーができなかった。もっとシュートを打てたらよかったが、それ以前の問題。1本目、2本目のパスでミスが出ていた。イラン戦やサウジ戦もそれほどいいサッカーはできていなかった。(グループリーグを)1位で突破できたのはよかったが、ミスを素直に受け止められていなかった。なぐさめ合いじゃなく、厳しく言い合ったほうがよかったのかもしれない」
この柿谷の言葉にもあるように、日本はチャンスを作る以前にまともにパスをつなぐことさえできなかった。それほど韓国戦の内容は酷かった。香川がいたら勝てたのか。そう問われれば甚だ疑問ではある。
とはいえ、問題はこの試合の結果うんぬんではなく、香川にとって、U-19代表にとって、さらには日本サッカーの未来にとって、最善の選択がなされたのかどうか、ということだ。