組み合わせによっては、もっと真価を見せられたはずだ
たとえば、アタッキングサードにおける仕掛けを、1、2、3の段階に分けるなら、堂安が最も輝くのは、2か3。最初に仕掛ける選手ではない。味方や相手DFの変化を見ながら、味付け、仕上げを施すところに最も大きな個性がある。中島が左サイドでボールを持ち、相手の注意を引きつけたら、その隙に堂安が動き出す。そのタイミングとコース取りの絶妙さと言ったら。絶品だった。
ところが、今回のアジアカップは、中島が負傷離脱。必然的に堂安がボールを預けられるようになった。特に大迫勇也を欠く試合では。しかし、堂安は中島のように、一本の槍で勝負するタイプではない。身体中に武器を仕込んで、状況に応じて使いこなすタイプ。本人は別の考えを持っているかもしれないが、私にはそう見える。そして中島という絶対的なボールの預けどころが無くなったために、堂安のプレーは幅が狭まり、それが状況の隙間を突くという、彼の持ち味を殺すことになったのではないか。
ところが、今回のアジアカップは、中島が負傷離脱。必然的に堂安がボールを預けられるようになった。特に大迫勇也を欠く試合では。しかし、堂安は中島のように、一本の槍で勝負するタイプではない。身体中に武器を仕込んで、状況に応じて使いこなすタイプ。本人は別の考えを持っているかもしれないが、私にはそう見える。そして中島という絶対的なボールの預けどころが無くなったために、堂安のプレーは幅が狭まり、それが状況の隙間を突くという、彼の持ち味を殺すことになったのではないか。
もしかすると、中島の代わりに乾貴士を起用すれば、堂安の負担は減ったかもしれない。だが、森保監督は「融合」を掲げ、先を見据えた起用を優先してきた。そのしわ寄せが、いや、試練と言っておこう。堂安に伸し掛かった大会だった。
この先も、同じような状況は山ほどあるはず。汎用性の高い堂安だけに、どれかひとつではなく、すべてをレベルアップさせたいところ。いつか『エース』としても、振る舞えるように。
同時に、この大会で、現時点の堂安のすべてが評価できるとも思わない。組み合わせによっては、もっと真価を見せられたはずだ。私の堂安への評価と期待は、大会が始まる前も、終わった今も、変わっていない。引き続き、楽しみにしている。
文●清水英斗(サッカーライター)