成長途上の日本サッカー界で「攻めのマインド」を貫いたニカノールと久米
一方右サイドを担う名良橋晃も「とにかく前にスペースがあって飛び出していかないと怒られた」と述懐している。
1993年、若くて極端に攻撃に比重を置くベルマーレ平塚(当時)は、JFL(2部相当)を16勝2敗で制しJリーグ昇格を果たす。だが翌94年、ファーストステージでも引き続き攻撃的に戦うと、54失点が積み上がり12チーム中11位と洗礼を浴びた。それでもニカノールは毅然と言い放った。
「守備に目を向けたら、このチームの良さが消えてしまう」
ぶれずに高い位置でボールを奪い、ショートカウンターというスタイルを貫き、セカンドステージは優勝したヴェルディに肉薄し、天皇杯では見事に頂点に立った。若いチームからは、岩本、名良橋に続き、名塚善寛、田坂和昭、野口幸司らも次々に日の丸をつけることになるので、ニカノールの慧眼ぶりが証明された。
こうして「湘南の暴れん坊」の異名を取る超攻撃的なチームを世に出したニカノールは、柏でも鮮やかな手腕を見せつける。監督就任1年目でチームを前年の12位から5位に引き上げ、Jリーグ最優秀監督に選ばれるのだ。
ただし、もしそのままニカノールが好成績を続けていたら、西野の監督デビューは先送りになっていた。2年目の柏は成績が下降し、久米との契約交渉でもつれたニカノールは退陣してしまう。そしてすでに編成の済んだチームを急遽託されたのが西野だった。
一方で監督西野に寄り添ったことは、久米自身にもプロとして勝負する覚悟をもたらした。西野は1999年にクラブに初のタイトル(リーグカップ)をもたらし、翌年にも優勝争いを演じた。だが2001年ファーストステージで順位を落とすと、久米に解任を言い渡される。チーム強化の責任を担う立場は同じでも、プロの西野は職を失い、会社に所属する久米の立場は保証されていた。その明暗を自覚した久米は、日立を辞め退路を断つと、先駆的にGMのノウハウを確立していく。プロのGMの手腕は水際立った。それは親会社から出向してくる上層部が主導するクラブとは一線を画し、清水エスパルスを建て直し、名古屋グランパスにはリーグ初制覇をもたらした。ついに名古屋ではクラブ史上初めて外部から社長に就任し、今年からは再び清水のGMとして老舗の復活を図っていた。
攻めなければ、改革はないし、目覚ましい発展は望めない。そういう意味で、久米もニカノールと同じく成長途上の日本サッカー界で「攻めのマインド」を貫いた。サラリーマン経験を積み、Jリーグの創設に尽力し、GMの仕事を果敢に、そして意欲的に切り拓いていった。
久米は天国で含み笑いを湛えながら、かつての戦友ニカノールを迎えただろうか。
「あれはなんだったんだよ。オレに任せたはずなのに契約問題で怒っちゃって。太っ腹は見掛け倒しか?」
「馬鹿言うな。オレが臍を曲げたから、西野が監督として世に出られたんだろう」
ニカノールがウィンクを返す光景が浮かぶ。
今頃は旧交を温め、日本サッカーの未来、それに少し心配な古巣について、優しい眼差しで語り続けているに違いない――。
(文中敬称略)
文●加部 究(スポーツライター)
1993年、若くて極端に攻撃に比重を置くベルマーレ平塚(当時)は、JFL(2部相当)を16勝2敗で制しJリーグ昇格を果たす。だが翌94年、ファーストステージでも引き続き攻撃的に戦うと、54失点が積み上がり12チーム中11位と洗礼を浴びた。それでもニカノールは毅然と言い放った。
「守備に目を向けたら、このチームの良さが消えてしまう」
ぶれずに高い位置でボールを奪い、ショートカウンターというスタイルを貫き、セカンドステージは優勝したヴェルディに肉薄し、天皇杯では見事に頂点に立った。若いチームからは、岩本、名良橋に続き、名塚善寛、田坂和昭、野口幸司らも次々に日の丸をつけることになるので、ニカノールの慧眼ぶりが証明された。
こうして「湘南の暴れん坊」の異名を取る超攻撃的なチームを世に出したニカノールは、柏でも鮮やかな手腕を見せつける。監督就任1年目でチームを前年の12位から5位に引き上げ、Jリーグ最優秀監督に選ばれるのだ。
ただし、もしそのままニカノールが好成績を続けていたら、西野の監督デビューは先送りになっていた。2年目の柏は成績が下降し、久米との契約交渉でもつれたニカノールは退陣してしまう。そしてすでに編成の済んだチームを急遽託されたのが西野だった。
一方で監督西野に寄り添ったことは、久米自身にもプロとして勝負する覚悟をもたらした。西野は1999年にクラブに初のタイトル(リーグカップ)をもたらし、翌年にも優勝争いを演じた。だが2001年ファーストステージで順位を落とすと、久米に解任を言い渡される。チーム強化の責任を担う立場は同じでも、プロの西野は職を失い、会社に所属する久米の立場は保証されていた。その明暗を自覚した久米は、日立を辞め退路を断つと、先駆的にGMのノウハウを確立していく。プロのGMの手腕は水際立った。それは親会社から出向してくる上層部が主導するクラブとは一線を画し、清水エスパルスを建て直し、名古屋グランパスにはリーグ初制覇をもたらした。ついに名古屋ではクラブ史上初めて外部から社長に就任し、今年からは再び清水のGMとして老舗の復活を図っていた。
攻めなければ、改革はないし、目覚ましい発展は望めない。そういう意味で、久米もニカノールと同じく成長途上の日本サッカー界で「攻めのマインド」を貫いた。サラリーマン経験を積み、Jリーグの創設に尽力し、GMの仕事を果敢に、そして意欲的に切り拓いていった。
久米は天国で含み笑いを湛えながら、かつての戦友ニカノールを迎えただろうか。
「あれはなんだったんだよ。オレに任せたはずなのに契約問題で怒っちゃって。太っ腹は見掛け倒しか?」
「馬鹿言うな。オレが臍を曲げたから、西野が監督として世に出られたんだろう」
ニカノールがウィンクを返す光景が浮かぶ。
今頃は旧交を温め、日本サッカーの未来、それに少し心配な古巣について、優しい眼差しで語り続けているに違いない――。
(文中敬称略)
文●加部 究(スポーツライター)