CB松田直樹の誕生。そこには恩師以外のあの名伯楽の存在も。
そんな松田直樹が、何故CBを務めるようになったのだろうか。指揮官は経緯について、島原商高時代にお世話になった小嶺忠敏監督(現長崎総科大附高監督)とのやりとりがあったと教えてくれた。
中学校時代、松田は前線のプレーヤーとして活躍していた。その実力が高く評価され、世代別代表の合宿にも中学時代から参加。しかし、中田英寿や財前宣之という名だたるプレーメーカーたちが代表の中軸におり、彼らと対等に渡り合うのは至難の業だ。そこで松田は身体能力の高さとメンタリティーの強さを見込まれ、中3の冬から生涯務めることとなるCBにコンバートされた。
配置転換の決断を下したのが、国見高を率いる傍らで当時、世代別日本代表でも指揮を執っていた小嶺忠敏監督である。ただ、高校に入ってからはどうなるかは分からない。そこで長崎の名将から連絡をもらった山田監督は、前橋育英に進学が決まっていた松田のポジションについて入学前の12月に言葉を交わしたという。
「小嶺先生と自分で話し合った。小嶺先生に自分が『このままCBで行きましょう』と話してみると、小嶺先生もそういう考えを持っていた。それで代表のコーチを務めていた小見(隆幸)さんもCBでいけると言ってくれた。『じゃあ、前育でもCBをやらせます』と僕は言ってね。本人も代表合宿で上手な子ばかりだったから、中田英寿とか財前とかと真っ向勝負するのは難しいと思ったんだと思う。そこからDFになりましたね」(山田監督)
その判断がなければ、稀代のCBは誕生しなかった。まさに、小嶺監督と山田監督の決断が松田の運命を変えたと言っても過言ではないだろう。
「負けず嫌いで抜かれることが絶対に嫌だと思っていた。当時、ナイジェリアにヌワンコ・カヌというFWがいたんだけど、それにやられたことが衝撃だったみたいでね。海外を経験できたことも大きかったと思う」(山田監督)
ここから松田は世界を舞台に戦い、日本のトップへ瞬く間に駆け上がった。彼が才能を最大限に発揮できるポジションはどこか。名伯楽たちの眼力には恐れ入る。ふたりの判断がなければ、CBを務めることはなかったかもしれない。
取材・文●松尾祐希(サッカーダイジェストWeb編集部)
中学校時代、松田は前線のプレーヤーとして活躍していた。その実力が高く評価され、世代別代表の合宿にも中学時代から参加。しかし、中田英寿や財前宣之という名だたるプレーメーカーたちが代表の中軸におり、彼らと対等に渡り合うのは至難の業だ。そこで松田は身体能力の高さとメンタリティーの強さを見込まれ、中3の冬から生涯務めることとなるCBにコンバートされた。
配置転換の決断を下したのが、国見高を率いる傍らで当時、世代別日本代表でも指揮を執っていた小嶺忠敏監督である。ただ、高校に入ってからはどうなるかは分からない。そこで長崎の名将から連絡をもらった山田監督は、前橋育英に進学が決まっていた松田のポジションについて入学前の12月に言葉を交わしたという。
「小嶺先生と自分で話し合った。小嶺先生に自分が『このままCBで行きましょう』と話してみると、小嶺先生もそういう考えを持っていた。それで代表のコーチを務めていた小見(隆幸)さんもCBでいけると言ってくれた。『じゃあ、前育でもCBをやらせます』と僕は言ってね。本人も代表合宿で上手な子ばかりだったから、中田英寿とか財前とかと真っ向勝負するのは難しいと思ったんだと思う。そこからDFになりましたね」(山田監督)
その判断がなければ、稀代のCBは誕生しなかった。まさに、小嶺監督と山田監督の決断が松田の運命を変えたと言っても過言ではないだろう。
「負けず嫌いで抜かれることが絶対に嫌だと思っていた。当時、ナイジェリアにヌワンコ・カヌというFWがいたんだけど、それにやられたことが衝撃だったみたいでね。海外を経験できたことも大きかったと思う」(山田監督)
ここから松田は世界を舞台に戦い、日本のトップへ瞬く間に駆け上がった。彼が才能を最大限に発揮できるポジションはどこか。名伯楽たちの眼力には恐れ入る。ふたりの判断がなければ、CBを務めることはなかったかもしれない。
取材・文●松尾祐希(サッカーダイジェストWeb編集部)