姉が交通事故で半身不随に
ディエゴはラケットを肩に担ぎ、サッカーボール蹴りながら、ほぼ毎日ラウン・テニスクラブに通った。サッカーもテニスも順調に上達していったが、兄パブロ(父と同名)によれば、ディエゴは12歳になるまでの7年間に、少年サッカーの試合で通算300ゴールをマークしたという。
「あのクラブには、昔から試合データを管理している人がいてね。彼の記録を見れば、僕が嘘をついていないってことがひと目でわかるはずさ」(兄パブロ)
ところがスポーツを愛する幸せな一家に、突如思いも寄らぬ不運が降り注ぐ。ディエゴが12歳のとき、当時17歳だった姉のアレハンドラが交通事故に遭い、脊椎を損傷。半身不随になり、余生を車椅子で過ごさなければならなくなったのである。
あんなにテニスが好きだった姉が、もう二度とコートを走り回ることができない。そのことを考えるとディエゴは涙が止まらなかった。だが彼は、姉の前では絶対に泣かなかった。いつも明るく振る舞い、アレハンドラを元気づけていたのである。
「ディエゴは本当に賢くて好い子よ。事故の直後は、わたしもショックでよく泣いていたし、家族のみんなも、わたしにどんな言葉をかけたらいいか、いつも悩んでるみたいだった。でもディエゴだけは、それまでと同じように笑顔で接してくれたの。あの子はフォルラン家にとって、太陽のような存在なのよ」
娘の事故に精神的な打撃を受けながらも、父パブロはディエゴをプロサッカー選手にするためのプランを着々と進めていた。またディエゴも、この頃から将来について真剣に考え始める。そして彼は、テニスを趣味の範囲にとどめ、サッカーに専念する決意を固めたのだった。
のちに一部のメディアで『ディエゴがテニスをあきらめてプロサッカー選手の道を選んだのは、姉アレハンドラの治療費を稼ぐためだった』と報道されたことがあったが、「それは事実ではない」と、父パブロは言う。
「あの事故で、われわれ家族の絆が以前にも増して深まったのは事実だが、ディエゴは治療費を稼ぐためにサッカー選手になろうと決めたわけではないし、わたしも息子をなにがなんでもプロのサッカー選手にしなければならないほど、経済的に困っていたわけではない」
これについてはアレハンドラも次のように話している。
「ウチほどのサッカー一家に生まれてプロをめざさないほうが、逆におかしいんじゃないかしら(笑)。わたしが事故に遭う前から、ディエゴはサッカー選手になろうとしていたんだし、マスコミは私たち家族の思い出を、無理にドラマチックに仕立ててくれなくても良かったのよ」
「あのクラブには、昔から試合データを管理している人がいてね。彼の記録を見れば、僕が嘘をついていないってことがひと目でわかるはずさ」(兄パブロ)
ところがスポーツを愛する幸せな一家に、突如思いも寄らぬ不運が降り注ぐ。ディエゴが12歳のとき、当時17歳だった姉のアレハンドラが交通事故に遭い、脊椎を損傷。半身不随になり、余生を車椅子で過ごさなければならなくなったのである。
あんなにテニスが好きだった姉が、もう二度とコートを走り回ることができない。そのことを考えるとディエゴは涙が止まらなかった。だが彼は、姉の前では絶対に泣かなかった。いつも明るく振る舞い、アレハンドラを元気づけていたのである。
「ディエゴは本当に賢くて好い子よ。事故の直後は、わたしもショックでよく泣いていたし、家族のみんなも、わたしにどんな言葉をかけたらいいか、いつも悩んでるみたいだった。でもディエゴだけは、それまでと同じように笑顔で接してくれたの。あの子はフォルラン家にとって、太陽のような存在なのよ」
娘の事故に精神的な打撃を受けながらも、父パブロはディエゴをプロサッカー選手にするためのプランを着々と進めていた。またディエゴも、この頃から将来について真剣に考え始める。そして彼は、テニスを趣味の範囲にとどめ、サッカーに専念する決意を固めたのだった。
のちに一部のメディアで『ディエゴがテニスをあきらめてプロサッカー選手の道を選んだのは、姉アレハンドラの治療費を稼ぐためだった』と報道されたことがあったが、「それは事実ではない」と、父パブロは言う。
「あの事故で、われわれ家族の絆が以前にも増して深まったのは事実だが、ディエゴは治療費を稼ぐためにサッカー選手になろうと決めたわけではないし、わたしも息子をなにがなんでもプロのサッカー選手にしなければならないほど、経済的に困っていたわけではない」
これについてはアレハンドラも次のように話している。
「ウチほどのサッカー一家に生まれてプロをめざさないほうが、逆におかしいんじゃないかしら(笑)。わたしが事故に遭う前から、ディエゴはサッカー選手になろうとしていたんだし、マスコミは私たち家族の思い出を、無理にドラマチックに仕立ててくれなくても良かったのよ」