未来をおもんぱかる恩師と、逸材探しに奔走するもうひとりの恩師。
タイミングは、抜群だった。
1992年冬。巷ではJリーグ創生の機運が高まり、異常なまでの盛り上がりは関西地域をも席巻していた。初年度から名を連ねていたガンバ大阪は、Jリーグ正会員の条件を満たすべく、下部組織の体系づくりに奔走していた。ジュニアユースとユース、その統括を任されたのが上野山信行である。
当時はまだセレクションなどの選考システムが確立されておらず、各地でこんな逸材がいるという情報を聞きつけては、上野山が足を運んで品定めするの繰り返し。ちなみに同時期、ユースチームの第1期生には宮本恒靖の名前もあった。上野山は自らが持つすべてのパイプを駆使し、低迷していた関西ユースサッカーの雄たらんと、チーム構築に情熱を注いでいたのだ。
それを知人から聞いた川口は迷わず、上野山と潤一を引き合わせる手はずを整えた。
前身である釜本邦茂サッカースクールでも育成にあたり、自分なりの目利きには自信があった上野山。潤一への第一印象は、こんな感じだった。
「なんちゅうしっかりした技術を持っている子なんやろ。これは化けるぞ」
入団にまったく障壁がなかったわけではない。潤一の母である幸子は、練習グランドのある吹田や豊中まで、堺から電車を乗り継ぎ1時間半以上もかかることを心配していた。すでに堺の上野芝中に進学することが決まり、青英学園の友人たちと一緒にサッカーをする、それで十分ではないのかと考えていたのだ。
しかし、ガンバからの誘いを受け、あっという間に夢を膨らませた潤一の想いがすべてを変えた。上野山の助言もあり、幸子は家族全員が潤一を応援することで、精神的な支えになろうと決めたのである。
潤一とガンバ。9年半に及ぶ長いストーリーは、こうして始まった。
1992年冬。巷ではJリーグ創生の機運が高まり、異常なまでの盛り上がりは関西地域をも席巻していた。初年度から名を連ねていたガンバ大阪は、Jリーグ正会員の条件を満たすべく、下部組織の体系づくりに奔走していた。ジュニアユースとユース、その統括を任されたのが上野山信行である。
当時はまだセレクションなどの選考システムが確立されておらず、各地でこんな逸材がいるという情報を聞きつけては、上野山が足を運んで品定めするの繰り返し。ちなみに同時期、ユースチームの第1期生には宮本恒靖の名前もあった。上野山は自らが持つすべてのパイプを駆使し、低迷していた関西ユースサッカーの雄たらんと、チーム構築に情熱を注いでいたのだ。
それを知人から聞いた川口は迷わず、上野山と潤一を引き合わせる手はずを整えた。
前身である釜本邦茂サッカースクールでも育成にあたり、自分なりの目利きには自信があった上野山。潤一への第一印象は、こんな感じだった。
「なんちゅうしっかりした技術を持っている子なんやろ。これは化けるぞ」
入団にまったく障壁がなかったわけではない。潤一の母である幸子は、練習グランドのある吹田や豊中まで、堺から電車を乗り継ぎ1時間半以上もかかることを心配していた。すでに堺の上野芝中に進学することが決まり、青英学園の友人たちと一緒にサッカーをする、それで十分ではないのかと考えていたのだ。
しかし、ガンバからの誘いを受け、あっという間に夢を膨らませた潤一の想いがすべてを変えた。上野山の助言もあり、幸子は家族全員が潤一を応援することで、精神的な支えになろうと決めたのである。
潤一とガンバ。9年半に及ぶ長いストーリーは、こうして始まった。