「練習開始の時間に行っても誰もグラウンドにいなかった(笑)」
――ではタイでの生活について聞かせてください。海外生活はタイが初めてだったんでしょうか?
はい、初めてです。なんせ、ひとり暮らし自体が初めてでしたから。
――でも、なぜ海外で、またタイでプレーしようかと思ったのですか?
妹(優季)の影響が強いです。それがタイだったのはご縁ですね。海外で生活している妹を見ていて、人として成長していく姿を目の当たりにしていたんです。それを見ていて、自分も日本以外の場所で生活してプレーしてみたいなと強く感じるようになったんです。
――兄妹で刺激し合ってますね。
そうですね(笑) 兄妹で切磋琢磨し、刺激し合いながら頑張っている感は強いかなあとは思います。
――初めての海外生活、苦労されていることはたくさんあるのでは?
苦労と思えばそうなのかも知れないですが、皆に助けられて生活していますよ。タイの方ってすごく優しいんです。最初に在籍したのが、ラチャブリー・ミッポンFCというチーム(バンコクから西へ約80キロ、ミャンマーとの国境を有するラチャブリー県に本拠地を置くプレミアリーグ所属チーム/以下、ラチャブリー)で田舎街だったのですが、来た当初は車を持っていなかったので、近くのロビンソン(タイ各所で見られる庶民派デパート)まで買い物へ行く際にも歩いて行っていたんです。
すると、途中で『ナガサトじゃないか、何処へ行くんだ? 乗っていきなさ~い!』とよく声を掛けてくれたり、ラチャブリーに唯一ある日本食屋さんへ行ってタイ人スタッフの方との会話の中で、『車が無いし遠いから、そんなに頻繁には来られないんだよ』と話したら、『家まで迎えに行ってあげるから~』とかね。銀行へ行っても私がタイ語が出来ないことは皆が知っているんで全部やってくれたり。
まあ田舎だったので余計になのかも知れませんが、本当にタイの方って温かいなと。基本そんな環境なので、あんまり苦労って感じはないんですよね。辛いのは家族と会えないことくらいですかね。
――タイ語は話せるようになりましたか?
少しだけは。ラチャブリーに日本語が少し話せるタイ人スタッフが居たので、サッカーや生活に必要な最低限の単語をいろいろと教えてもらいました。
――タイでプレーされてみて、驚いたことはなんでしょうか?
タイに来た日本人選手は誰でもそう思うでしょうが、一番最初にびっくりしたのは、練習開始の時間にグラウンドへ行っても誰も居なかったことですかね(笑)。遅れてやっと練習が始まったと思えば締まりがなく長いんです。それに戸惑い、慣れるのに本当に時間が掛かりました。特にタイへ来て最初の1か月はかなりストレスを感じていたんです。ずっと日本へ帰りたいと思っていましたから。
――1~2年目はラチャブリーで、3年目の今年はバンコクで生活されています。“大都市バンコク”はいかがでしょうか?
ラチャブリーが田舎過ぎて、バンコクから遠征に来た友人選手から「よくここで生活しているよなぁ~」と軽く馬鹿にされた感じで言われていたのですが、当時はその意味がよく分からなかったんです。でもバンコクへ移り住んでみて、彼らが言っている意味がやっと分かりましたよね。ここへ住んだら他へ行きたくなくなるよなと(大笑)。
――バンコクは何でもありますからね。
本当に。逆に私は最初に来た場所が何もないラチャブリーで良かったなと。言っても、バンコクから車で2時間ぐらいの距離なんですけどね(笑)。
――Jリーグでプレーされていた時には数多くの移籍を経験され、毎年チームを移られていましたが、何か信念的な理由からなのでしょうか?
クビになった場合もあるし、残りたかったけど残れなかった場合もあるし、自らの意志とは少し違います。活躍したシーズンの翌年にそのまま残ったとしたら、前年の評価があるから、レギュラーに近いポジションに居られるとは思います。でもそれに甘えて良いのかなという気持ちが常にあったのも事実です。移籍して新しいグループに入っていくことって、すごくエネルギーが必要でリスクがあることだとは思うんですが、自分を必要としてくれる環境があるのであれば、そこへ身を投じて新たに頑張ってみたいという気持ちが強くあって、その繰り返しが結果そうなったのだとは思います。
――私が思う“サッカー選手としての永里源気像”は、何処へ行ってもコンスタントに結果を残す“必殺仕事人”的なイメージなのですが、ご自身はどう感じていらっしゃいますか?
う~ん、どうなんですかね。自分の中ではそう言っていただける程、何処でも活躍出来たとは思えないんですよね。甲府での初年度は活躍できなくて出されましたし(FC東京へ半年間レンタル)。今までの選手生活で満足出来たシーズンは、福岡でお世話になった2010年だけです。逆にその時のレベルをスタンダードとする選手でなければ駄目だと思ってやっているんですけどね。
――メディアが勝手に!と言われるのは承知していますが、日本で“昇格請負人”と呼
ばれる選手や監督がいらっしゃいますよね。永里選手もそのひとりかと思うんです。それについてはどうでしょう?
私の中では『J1でプレーしている選手が本当のJリーガー(プロ選手)』なんです。自分はJ1で数試合しかプレーしていないし、チームが昇格しても自分は残れていない訳で。そう呼ばれるのは恥ずかしく、また悔しいというのが本音です。
はい、初めてです。なんせ、ひとり暮らし自体が初めてでしたから。
――でも、なぜ海外で、またタイでプレーしようかと思ったのですか?
妹(優季)の影響が強いです。それがタイだったのはご縁ですね。海外で生活している妹を見ていて、人として成長していく姿を目の当たりにしていたんです。それを見ていて、自分も日本以外の場所で生活してプレーしてみたいなと強く感じるようになったんです。
――兄妹で刺激し合ってますね。
そうですね(笑) 兄妹で切磋琢磨し、刺激し合いながら頑張っている感は強いかなあとは思います。
――初めての海外生活、苦労されていることはたくさんあるのでは?
苦労と思えばそうなのかも知れないですが、皆に助けられて生活していますよ。タイの方ってすごく優しいんです。最初に在籍したのが、ラチャブリー・ミッポンFCというチーム(バンコクから西へ約80キロ、ミャンマーとの国境を有するラチャブリー県に本拠地を置くプレミアリーグ所属チーム/以下、ラチャブリー)で田舎街だったのですが、来た当初は車を持っていなかったので、近くのロビンソン(タイ各所で見られる庶民派デパート)まで買い物へ行く際にも歩いて行っていたんです。
すると、途中で『ナガサトじゃないか、何処へ行くんだ? 乗っていきなさ~い!』とよく声を掛けてくれたり、ラチャブリーに唯一ある日本食屋さんへ行ってタイ人スタッフの方との会話の中で、『車が無いし遠いから、そんなに頻繁には来られないんだよ』と話したら、『家まで迎えに行ってあげるから~』とかね。銀行へ行っても私がタイ語が出来ないことは皆が知っているんで全部やってくれたり。
まあ田舎だったので余計になのかも知れませんが、本当にタイの方って温かいなと。基本そんな環境なので、あんまり苦労って感じはないんですよね。辛いのは家族と会えないことくらいですかね。
――タイ語は話せるようになりましたか?
少しだけは。ラチャブリーに日本語が少し話せるタイ人スタッフが居たので、サッカーや生活に必要な最低限の単語をいろいろと教えてもらいました。
――タイでプレーされてみて、驚いたことはなんでしょうか?
タイに来た日本人選手は誰でもそう思うでしょうが、一番最初にびっくりしたのは、練習開始の時間にグラウンドへ行っても誰も居なかったことですかね(笑)。遅れてやっと練習が始まったと思えば締まりがなく長いんです。それに戸惑い、慣れるのに本当に時間が掛かりました。特にタイへ来て最初の1か月はかなりストレスを感じていたんです。ずっと日本へ帰りたいと思っていましたから。
――1~2年目はラチャブリーで、3年目の今年はバンコクで生活されています。“大都市バンコク”はいかがでしょうか?
ラチャブリーが田舎過ぎて、バンコクから遠征に来た友人選手から「よくここで生活しているよなぁ~」と軽く馬鹿にされた感じで言われていたのですが、当時はその意味がよく分からなかったんです。でもバンコクへ移り住んでみて、彼らが言っている意味がやっと分かりましたよね。ここへ住んだら他へ行きたくなくなるよなと(大笑)。
――バンコクは何でもありますからね。
本当に。逆に私は最初に来た場所が何もないラチャブリーで良かったなと。言っても、バンコクから車で2時間ぐらいの距離なんですけどね(笑)。
――Jリーグでプレーされていた時には数多くの移籍を経験され、毎年チームを移られていましたが、何か信念的な理由からなのでしょうか?
クビになった場合もあるし、残りたかったけど残れなかった場合もあるし、自らの意志とは少し違います。活躍したシーズンの翌年にそのまま残ったとしたら、前年の評価があるから、レギュラーに近いポジションに居られるとは思います。でもそれに甘えて良いのかなという気持ちが常にあったのも事実です。移籍して新しいグループに入っていくことって、すごくエネルギーが必要でリスクがあることだとは思うんですが、自分を必要としてくれる環境があるのであれば、そこへ身を投じて新たに頑張ってみたいという気持ちが強くあって、その繰り返しが結果そうなったのだとは思います。
――私が思う“サッカー選手としての永里源気像”は、何処へ行ってもコンスタントに結果を残す“必殺仕事人”的なイメージなのですが、ご自身はどう感じていらっしゃいますか?
う~ん、どうなんですかね。自分の中ではそう言っていただける程、何処でも活躍出来たとは思えないんですよね。甲府での初年度は活躍できなくて出されましたし(FC東京へ半年間レンタル)。今までの選手生活で満足出来たシーズンは、福岡でお世話になった2010年だけです。逆にその時のレベルをスタンダードとする選手でなければ駄目だと思ってやっているんですけどね。
――メディアが勝手に!と言われるのは承知していますが、日本で“昇格請負人”と呼
ばれる選手や監督がいらっしゃいますよね。永里選手もそのひとりかと思うんです。それについてはどうでしょう?
私の中では『J1でプレーしている選手が本当のJリーガー(プロ選手)』なんです。自分はJ1で数試合しかプレーしていないし、チームが昇格しても自分は残れていない訳で。そう呼ばれるのは恥ずかしく、また悔しいというのが本音です。