アンチの批判をよそに求められていたタイトルを獲得
グアルディオラの場合は、プレーよりも采配のほうが反論しやすいという別次元の問題を抱えている。誰も選手の立場になって考えることができないのは、その名人芸が手の届かないところに存在にしていると認識しているからだ。驚嘆することしかできない天才についてあれこれ言うことはできない。
一方、監督の采配には常に議論の余地があり、試合後、さらに言えば敗戦後であればなおさらでだ。フットボールではよく知られた法則だ。しかし、無数のタイトルを獲得したグアルディオラを、プラグマティズムの観点から批判するのは難しい。
しかもそのフットボールが支配的かつ魅力的であれば、ロマンチストと非難されることも難しくなる。革新がまず驚きを与え、さらにそのスタイルがライバルにとっても目指すべき指標となるとき、我々は今世紀最も影響力のある監督を相手にしていることを理解しなければならない。その存在を好むと好まざるとにかかわらず、だ。
一方、監督の采配には常に議論の余地があり、試合後、さらに言えば敗戦後であればなおさらでだ。フットボールではよく知られた法則だ。しかし、無数のタイトルを獲得したグアルディオラを、プラグマティズムの観点から批判するのは難しい。
しかもそのフットボールが支配的かつ魅力的であれば、ロマンチストと非難されることも難しくなる。革新がまず驚きを与え、さらにそのスタイルがライバルにとっても目指すべき指標となるとき、我々は今世紀最も影響力のある監督を相手にしていることを理解しなければならない。その存在を好むと好まざるとにかかわらず、だ。
2人は、アンチの批判をよそに求められていたタイトルを獲得した。レオがフットボール史上最も偉大な選手たちの仲間入りを果たすためにワールドカップの優勝トロフィーが必要だったと信じていた者は本当にいたのだろうか?
ペップがステイタスを確固たるものにするために3度目のチャンピオンズリーグが必要だったと信じていた者は本当にいたのだろうか?
批判から身を守れば傲慢だと非難され、敬意と優しさを示せば偽善者と非難されるのであれば、隠れ場所はない。しかし、シンパもアンチももはや関係ない。なぜなら2人の英雄は要求されていたカップを手にすることでシーズンを終えることができたからだ。
結果的に彼らが長年、示してきた優越性が象徴的に裏付けられた。ティエリ・アンリがしたようにアンチに「眠れ」とまでは言わないが、自分たちが所属するフィールドを偉大なものへと昇華させた天才たちを認める努力をすることは必要だ。なぜなら彼らこそ我々全ての人間をより良き方向に導くリーダーだからだ。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳●下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。
【記事】一体なぜ? 久保建英に躍進アストン・ビラが関心とまさかの報道!かつて冷遇したエメリが獲得を希望とも「完璧にフィットすると信じている」
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結果的に彼らが長年、示してきた優越性が象徴的に裏付けられた。ティエリ・アンリがしたようにアンチに「眠れ」とまでは言わないが、自分たちが所属するフィールドを偉大なものへと昇華させた天才たちを認める努力をすることは必要だ。なぜなら彼らこそ我々全ての人間をより良き方向に導くリーダーだからだ。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳●下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
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