「嘉人にとっても酷だった」
いつの間にか、育成講座的な話になったので、少しハンドルを「職業:プロフットボーラー」に戻す。数え切れない挫折を乗り越えてプロの世界を生き残ってきた憲剛さんにとって、「最大の挫折」は何を指すのか。
そう問うと、憲剛さんは「挫折….」と呟いたあと、しばらく考えてから口を開いた。
「(リーグ戦とカップ戦で)2位になること8回ですから、めちゃくちゃ(心は)折れているんです。めちゃくちゃ悔しい想いをしているんです。それを糧にして、(現役生活の)ラスト5年でバーッとタイトルを獲得しているから成功に見えて、息子も引退セレモニーで『出来過ぎだった』と言っていますが、仮に35歳でやめていたら負けに塗れた人生だったわけです」
と、ここまで話すと、憲剛さんは「ただ、最大の挫折はなんだろう?」と言って考え込む。
「ブラジル・ワールドカップのメンバー落選なのか、南アフリカ大会のパラグアイ戦に出場したけどチームを救えなかったことなのか、どちらも違うような気がする。最大の挫折…。多すぎて分からないんですよね。初めてリーグカップ決勝で敗れた2007年のガンバ大阪戦とか、2017年のセレッソ大阪とのリーグカップ決勝とか。それに日本代表の活動も基本的に苦しかったです」
ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。挫折が多かったとはいえ、川崎ではプロ1年目からコンスタントに出番を得て、日本代表としても68試合・6得点と実績を残している。代表歴がないどころか、クラブでさえ出場機会に恵まれない選手からすれば、憲剛さんのサッカー人生は羨ましいのでは? その感想を本人にぶつけると、「恵まれているよねと、言われると思います」との答が返ってきた。
「大怪我は1回だけ(19年11月に左膝前十字靭帯損傷、左膝外側半月板損傷)で、あれも大きな挫折と捉える方も多いかもしれませんが、僕にとっては挫折ではない。(現役引退に向けて)最後に元気な姿を皆さんに見てもらうプロセスの一環で、『39歳で復活なんて前例にないし、じゃあ、やってやろう』って感じでしたから。22歳とかで大怪我をしていたら最大の挫折だったかもしれませんが、自分にはそういうアクシデントがありませんでしたし」
正直、挫折の定義は難しい。それこそ、人それぞれで違うだろう。ちなみに、自分は憲剛さんの最大の挫折が14年ワールドカップのメンバー落選だと勝手に思い込んでいた。それを本人に伝えると、はっきりとこう言われた。「あれは挫折ではなく、放棄なんです」と。
「(落選を知って)どうでもいいやと思いましたから。バスの中で(川崎のチームメイトと一緒に)メンバー発表を見ていたのは地獄でした。あのシチュエーションは(選ばれた大久保)嘉人や他のチームメイトにとっても酷でしたよ。ふたりとも選ばれる、もしくは外れるなら良かったですが、ひとりが入って、もう片方が落ちるって。どうしていいか分からなくなった意味では(あの出来事が)ナンバーワンです」
そう問うと、憲剛さんは「挫折….」と呟いたあと、しばらく考えてから口を開いた。
「(リーグ戦とカップ戦で)2位になること8回ですから、めちゃくちゃ(心は)折れているんです。めちゃくちゃ悔しい想いをしているんです。それを糧にして、(現役生活の)ラスト5年でバーッとタイトルを獲得しているから成功に見えて、息子も引退セレモニーで『出来過ぎだった』と言っていますが、仮に35歳でやめていたら負けに塗れた人生だったわけです」
と、ここまで話すと、憲剛さんは「ただ、最大の挫折はなんだろう?」と言って考え込む。
「ブラジル・ワールドカップのメンバー落選なのか、南アフリカ大会のパラグアイ戦に出場したけどチームを救えなかったことなのか、どちらも違うような気がする。最大の挫折…。多すぎて分からないんですよね。初めてリーグカップ決勝で敗れた2007年のガンバ大阪戦とか、2017年のセレッソ大阪とのリーグカップ決勝とか。それに日本代表の活動も基本的に苦しかったです」
ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。挫折が多かったとはいえ、川崎ではプロ1年目からコンスタントに出番を得て、日本代表としても68試合・6得点と実績を残している。代表歴がないどころか、クラブでさえ出場機会に恵まれない選手からすれば、憲剛さんのサッカー人生は羨ましいのでは? その感想を本人にぶつけると、「恵まれているよねと、言われると思います」との答が返ってきた。
「大怪我は1回だけ(19年11月に左膝前十字靭帯損傷、左膝外側半月板損傷)で、あれも大きな挫折と捉える方も多いかもしれませんが、僕にとっては挫折ではない。(現役引退に向けて)最後に元気な姿を皆さんに見てもらうプロセスの一環で、『39歳で復活なんて前例にないし、じゃあ、やってやろう』って感じでしたから。22歳とかで大怪我をしていたら最大の挫折だったかもしれませんが、自分にはそういうアクシデントがありませんでしたし」
正直、挫折の定義は難しい。それこそ、人それぞれで違うだろう。ちなみに、自分は憲剛さんの最大の挫折が14年ワールドカップのメンバー落選だと勝手に思い込んでいた。それを本人に伝えると、はっきりとこう言われた。「あれは挫折ではなく、放棄なんです」と。
「(落選を知って)どうでもいいやと思いましたから。バスの中で(川崎のチームメイトと一緒に)メンバー発表を見ていたのは地獄でした。あのシチュエーションは(選ばれた大久保)嘉人や他のチームメイトにとっても酷でしたよ。ふたりとも選ばれる、もしくは外れるなら良かったですが、ひとりが入って、もう片方が落ちるって。どうしていいか分からなくなった意味では(あの出来事が)ナンバーワンです」
落選翌日、憲剛さんは「感謝。」と題してブログを更新している。そこで「(ブラジルに)行けないって決まった時のあの喪失感は一生忘れられないと思います。なので、これは怒られてしまうかもしれませんが、本当に一瞬、一瞬ですがどうでもよくなりました。ACLもリーグ戦も何もかも」と伝えつつ、次の言葉も残している。
「ただ、どんなに最高な日でも、どんなに最悪な日でも、必ず次の朝は来るわけで。 練習があったり、試合があったり、奥さんと話したり、子どもたちと話したりと日常に触れていきながら少しずつこの事実を消化していけるのかなと今は思っています」
「今日、ACLの公式練習でボールを蹴ったら、その瞬間は落選したことを忘れていました。ああ、サッカーって楽しいなって。サッカーって凄いなって。だから、ボールがあれば、サッカーがあれば俺は前を向いていけると思っています。今まで辿ってきた道は間違っていなかったと思うし、今までやってきたことに悔いは一切ないので」
この文脈から察すると、憲剛さんが結果的に潰れなかったのは思考の切り替えがあったからと、そう思った。プロフットボーラーである前に、サッカー小僧。ある意味原点に立ち返った憲剛さんが、その後、川崎の黄金時代を築く原動力になるとは…。人の人生なんて、分からないものである。
では、憲剛さんにとってプロ最大の喜びとは? 「最大の挫折」を問われた時と違って、彼は即答した。
<パート4に続く>
取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)
<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。
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「ただ、どんなに最高な日でも、どんなに最悪な日でも、必ず次の朝は来るわけで。 練習があったり、試合があったり、奥さんと話したり、子どもたちと話したりと日常に触れていきながら少しずつこの事実を消化していけるのかなと今は思っています」
「今日、ACLの公式練習でボールを蹴ったら、その瞬間は落選したことを忘れていました。ああ、サッカーって楽しいなって。サッカーって凄いなって。だから、ボールがあれば、サッカーがあれば俺は前を向いていけると思っています。今まで辿ってきた道は間違っていなかったと思うし、今までやってきたことに悔いは一切ないので」
この文脈から察すると、憲剛さんが結果的に潰れなかったのは思考の切り替えがあったからと、そう思った。プロフットボーラーである前に、サッカー小僧。ある意味原点に立ち返った憲剛さんが、その後、川崎の黄金時代を築く原動力になるとは…。人の人生なんて、分からないものである。
では、憲剛さんにとってプロ最大の喜びとは? 「最大の挫折」を問われた時と違って、彼は即答した。
<パート4に続く>
取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェストTV編集長)
<プロフィール>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ一筋を貫いたワンクラブマンで、2020年限りで現役を引退。川崎でリレーションズ・オーガナイザー(FRO)、JFAロールモデルコーチなどを務め、コメンテーターとしても活躍中だ。
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