高校三年生で参加した国体が「クロッサー誕生」のルーツだった。
アパート暮らしを始めると、宏介はひとつの選択を迫られていた。高校選びである。“プロ”という将来像がぼんやりと見え始めてきた彼は、重要な局面に立たされていたのだ。
「Jリーグのユースチームも考えました。川崎の練習には参加させてもらいましたが、スタッフの眼に留まらなくて悔しい想いをしました。神奈川の高校なら、やっぱり桐光学園か桐蔭学園に行きたかった。でも、学費が高くて……」(宏介)
そこで声を掛けてくれたのがサッカー仲間のひとり、小林悠(現・川崎)の母親だった。
「悠のお母さんが『渕野辺高に一緒に行かない』と誘ってくれて。そうしたら、他のみんなも『渕野辺に行こう』という流れになって、町田で一緒にサッカーをやっていた仲間がごっそりと集まりました」(宏介)
当時の麻布大渕野辺高(現・麻布大高)は、勝ち上がっても神奈川県のベスト8というレベルだった。もう少し頑張れば全国も狙えるということで、ちょうど平成15年から体育系コースを設けた。小林の母親に誘われる前から、宏介はサッカー部監督の石井孝良に「選択肢のひとつとして考えておいてくれ」と言われていた。そういう縁もあり、体育系コースの一期生として入学を決めた。
「幸いにも特待生で入れて、金銭的な負担を軽減できました。そういう待遇をしてくれた石井監督、僕たち家族を援助してくれた方たちのためにも、『絶対プロになる』いう気持ちをはっきりと固めました。だから、神奈川で1番の高校になる、中心選手であり続ける。ふたつの目標をとりあえず掲げました」(宏介)
エンジョイよりも強くなる。小学生の頃とは真逆のスタンスでサッカーに打ち込むようになった宏介の姿は、石井監督の目にこう映っていた。
「誰にも負けたくない。そんな闘争心はひしひしと伝わってきました。ボールを取られれば、すぐさま奪い返す。プロになりたいという明確な目標があったからでしょう。一切の妥協がなかったですね」
最大の武器は左足のキックだった。
「高校レベルでは抜群の精度でした。他校の監督にJリーグのスカウトも認めるほどでしたからね。あとは当たりの強さ、足もとの技術を身に付ければ、どうにかプロになれるかなと感じていました」(石井)
宏介は、石井監督の下で「ボールを大事に扱う、簡単に失わない、仲間を大事にする」という3点を重点的に教え込まれた。そして不動の左サイドハーフとして、高校2年時から2大会続けて冬の選手権に出場。桐光学園や桐蔭学園といったライバル校を退けて、心強い仲間とともに全国への切符を勝ち取った。
その大舞台ではいずれも初戦敗退と結果を出せなかったが、麻布大渕野辺高での3年間は貴重な財産となる。当時のチームメイトで親友の工藤直耶と高野祐一の証言によれば、3年時の国体参加が「クロッサー太田・誕生」のきっかけになった。
「国体から帰ってくると、(サッカーに取り組む)意識が一段と高くなっていて。パスやセンタリングが速くなっていたんです。国体でJリーグのユース組とも一緒にプレーして、危機感を覚えたのかもしれません。『こんなんじゃ通用しない』と言って、クロスをバンバン上げていましたからね(笑)」(工藤)
「あれが分岐点かもしれません。それまでクロッサーのイメージはなくて、どちらかと言うと足が速い、身体が強い選手でしたからね。頭が吹っ飛ぶくらいの弾丸クロスに、(小林)悠も怒っていましたよ。『マジ、痛えよ』って(笑)」(高野)
「Jリーグのユースチームも考えました。川崎の練習には参加させてもらいましたが、スタッフの眼に留まらなくて悔しい想いをしました。神奈川の高校なら、やっぱり桐光学園か桐蔭学園に行きたかった。でも、学費が高くて……」(宏介)
そこで声を掛けてくれたのがサッカー仲間のひとり、小林悠(現・川崎)の母親だった。
「悠のお母さんが『渕野辺高に一緒に行かない』と誘ってくれて。そうしたら、他のみんなも『渕野辺に行こう』という流れになって、町田で一緒にサッカーをやっていた仲間がごっそりと集まりました」(宏介)
当時の麻布大渕野辺高(現・麻布大高)は、勝ち上がっても神奈川県のベスト8というレベルだった。もう少し頑張れば全国も狙えるということで、ちょうど平成15年から体育系コースを設けた。小林の母親に誘われる前から、宏介はサッカー部監督の石井孝良に「選択肢のひとつとして考えておいてくれ」と言われていた。そういう縁もあり、体育系コースの一期生として入学を決めた。
「幸いにも特待生で入れて、金銭的な負担を軽減できました。そういう待遇をしてくれた石井監督、僕たち家族を援助してくれた方たちのためにも、『絶対プロになる』いう気持ちをはっきりと固めました。だから、神奈川で1番の高校になる、中心選手であり続ける。ふたつの目標をとりあえず掲げました」(宏介)
エンジョイよりも強くなる。小学生の頃とは真逆のスタンスでサッカーに打ち込むようになった宏介の姿は、石井監督の目にこう映っていた。
「誰にも負けたくない。そんな闘争心はひしひしと伝わってきました。ボールを取られれば、すぐさま奪い返す。プロになりたいという明確な目標があったからでしょう。一切の妥協がなかったですね」
最大の武器は左足のキックだった。
「高校レベルでは抜群の精度でした。他校の監督にJリーグのスカウトも認めるほどでしたからね。あとは当たりの強さ、足もとの技術を身に付ければ、どうにかプロになれるかなと感じていました」(石井)
宏介は、石井監督の下で「ボールを大事に扱う、簡単に失わない、仲間を大事にする」という3点を重点的に教え込まれた。そして不動の左サイドハーフとして、高校2年時から2大会続けて冬の選手権に出場。桐光学園や桐蔭学園といったライバル校を退けて、心強い仲間とともに全国への切符を勝ち取った。
その大舞台ではいずれも初戦敗退と結果を出せなかったが、麻布大渕野辺高での3年間は貴重な財産となる。当時のチームメイトで親友の工藤直耶と高野祐一の証言によれば、3年時の国体参加が「クロッサー太田・誕生」のきっかけになった。
「国体から帰ってくると、(サッカーに取り組む)意識が一段と高くなっていて。パスやセンタリングが速くなっていたんです。国体でJリーグのユース組とも一緒にプレーして、危機感を覚えたのかもしれません。『こんなんじゃ通用しない』と言って、クロスをバンバン上げていましたからね(笑)」(工藤)
「あれが分岐点かもしれません。それまでクロッサーのイメージはなくて、どちらかと言うと足が速い、身体が強い選手でしたからね。頭が吹っ飛ぶくらいの弾丸クロスに、(小林)悠も怒っていましたよ。『マジ、痛えよ』って(笑)」(高野)