仲介したのはドイエン・スポーツのルーカスだ!
興味深いのは、ポルトとユーベの間に立って交渉を進めた仲介人が、ポルトと繋がりの深い投資ファンド『ドイエン・スポーツ』代表のネリオ・ルーカスだったということ。
ミランの株式の48%を買収しようとしているタイの投資家、ビー・タエチャウボルのアドバイザーも務める人物で、今夏のメルカートでは、ある時期までミランのアドリアーノ・ガッリアーニ副会長と行動を共にしていた。
しかし、自身とかかわりがあるジョフレー・コンドグビアを巡るインテルとの「ダービー」でも、ポルトのジャクソン・マルティネスを巡るA・マドリーとの争奪戦でもミランを勝たせることができなかったため、ガッリアーニから遠ざけられていた。
それがメルカート後半になって、今度はユーベとの関係を強めはじめたのだ。
A・サンドロ自身は、代理人がシティ行きの話をまとめてきたことに満足してはいたものの、移籍金ゼロでポルトを去ることに後ろめたい感情を抱いていたようだ。
それもあってルーカスが持ち込んだユーベへの移籍話に応じ、イタリア行きを決断した。
ユーベは後に、結果的にシケイラを裏切ることになったと認めている。見方を変えれば、それだけA・サンドロが欲しかったのだろう。
実際にユーベの首脳部は、A・サンドロを今後7~8年に渡って左サイドを任せられるプレーヤーだと高く評価している。
29歳であまり伸びしろが残っていないシケイラを1000万ユーロ(約14億円)で獲るよりも、24歳のA・サンドロに2600万ユーロ(約36億円)を投資した判断は賢明であり、理に適っていたと言える
文:ジャンルカ・ディ・マルツィオ
翻訳:片野道郎
※ワールドサッカーダイジェスト2015.10.01号より加筆・修正
【今だから言える15年夏の超極秘話①】ポグバ移籍は実現の可能性が十分にあった!
【今だから言える15年夏の超極秘話②】補強失敗を受けてモウリーニョとアブラモビッチの間にヒビが?
【著者プロフィール】
Gianluca DI MARZIO / SKY ITALIA
ジャンルカ・ディ・マルツィオ
1974年3月28日、ナポリ近郊の町に生まれる。父は70~90年代にナポリ、ジェノア、レッチェなどで監督を歴任し、現在はTVコメンテーターのジャンニ・ディ・マルツィオ。選手としては才能に恵まれず、ジャーナリストを志し、パドバ大学在学中の94年に地元のTV局でキャリアをスタート。04年から『スカイ・イタリア』に所属する。父を通して得た人脈を活かしてカルチョの世界に広いネットワークを築き、移籍マーケットの専門記者という独自のフィールドを開拓。この分野ではイタリアの第一人者で、13年1月にグアルディオラのバイエルン入りをスクープしてからは、他の欧州諸国でも注目を集めている。
ミランの株式の48%を買収しようとしているタイの投資家、ビー・タエチャウボルのアドバイザーも務める人物で、今夏のメルカートでは、ある時期までミランのアドリアーノ・ガッリアーニ副会長と行動を共にしていた。
しかし、自身とかかわりがあるジョフレー・コンドグビアを巡るインテルとの「ダービー」でも、ポルトのジャクソン・マルティネスを巡るA・マドリーとの争奪戦でもミランを勝たせることができなかったため、ガッリアーニから遠ざけられていた。
それがメルカート後半になって、今度はユーベとの関係を強めはじめたのだ。
A・サンドロ自身は、代理人がシティ行きの話をまとめてきたことに満足してはいたものの、移籍金ゼロでポルトを去ることに後ろめたい感情を抱いていたようだ。
それもあってルーカスが持ち込んだユーベへの移籍話に応じ、イタリア行きを決断した。
ユーベは後に、結果的にシケイラを裏切ることになったと認めている。見方を変えれば、それだけA・サンドロが欲しかったのだろう。
実際にユーベの首脳部は、A・サンドロを今後7~8年に渡って左サイドを任せられるプレーヤーだと高く評価している。
29歳であまり伸びしろが残っていないシケイラを1000万ユーロ(約14億円)で獲るよりも、24歳のA・サンドロに2600万ユーロ(約36億円)を投資した判断は賢明であり、理に適っていたと言える
文:ジャンルカ・ディ・マルツィオ
翻訳:片野道郎
※ワールドサッカーダイジェスト2015.10.01号より加筆・修正
【今だから言える15年夏の超極秘話①】ポグバ移籍は実現の可能性が十分にあった!
【今だから言える15年夏の超極秘話②】補強失敗を受けてモウリーニョとアブラモビッチの間にヒビが?
【著者プロフィール】
Gianluca DI MARZIO / SKY ITALIA
ジャンルカ・ディ・マルツィオ
1974年3月28日、ナポリ近郊の町に生まれる。父は70~90年代にナポリ、ジェノア、レッチェなどで監督を歴任し、現在はTVコメンテーターのジャンニ・ディ・マルツィオ。選手としては才能に恵まれず、ジャーナリストを志し、パドバ大学在学中の94年に地元のTV局でキャリアをスタート。04年から『スカイ・イタリア』に所属する。父を通して得た人脈を活かしてカルチョの世界に広いネットワークを築き、移籍マーケットの専門記者という独自のフィールドを開拓。この分野ではイタリアの第一人者で、13年1月にグアルディオラのバイエルン入りをスクープしてからは、他の欧州諸国でも注目を集めている。