「あの時はちょっと空回りしていたかもしれません」
「高校時代は常に『オナイウ阿道の弟』と書かれることが多くて、正直嫌でした」
高校時代の情滋は、どこか兄にプレーを似せようとしている印象があった。阿道の高校時代はストライカーからゲームメイクまで全てをこなす選手だった。最前線でポストプレーをしたと思えば、トップ下やボランチの位置まで落ちてボールを受けては、ドリブルで運んでスルーパスを通したり、サイドに展開をしたりと攻撃の起点にもなる。そしてゴール前に何度もスプリントしてフィニッシャーとしても存在感を発揮する。まさに何でもできる選手だった。
だが、情滋はどちらかと言うと突破型のアタッカー。スタイルは全く違うが、兄のように中盤やボランチの位置まで落ちてゲームを作ったり、ドリブルで運んだりと器用に何でもこなそうとしていた。その印象をぶつけると、情滋は少し考えてからこう答えた。
「そうですね、それはあったかと思います。それに高校の時まではみんなが僕にボールを集めようとしてくれていたので、『俺がなんとかしよう』という思いが強すぎたと思います。パスも出そう、シュートもしよう、ドリブルもしようと思いすぎて、自分のストロングを徹底的に伸ばすことができていなかったと思います。自分の中では、周りに弟ではなく、『オナイウ情滋』として知らしめたい思いはずっと持っているのですが、あの時はちょっと空回りしていたかもしれません」
高3の時はチームの完全な中心選手となるが、インターハイも選手権も出場できず。思うようなアピールができぬまま、高卒プロの道は厳しくなってしまった。
ここで初めて兄とは異なる選択をしなければならなくなった。大学進学を決意し、関東の大学を考えたが、そこで情滋は「関東圏では常に『弟』と言われてしまう印象だったので、兄と比較されない場所に行きたい」と思うようになったという。
高校時代の情滋は、どこか兄にプレーを似せようとしている印象があった。阿道の高校時代はストライカーからゲームメイクまで全てをこなす選手だった。最前線でポストプレーをしたと思えば、トップ下やボランチの位置まで落ちてボールを受けては、ドリブルで運んでスルーパスを通したり、サイドに展開をしたりと攻撃の起点にもなる。そしてゴール前に何度もスプリントしてフィニッシャーとしても存在感を発揮する。まさに何でもできる選手だった。
だが、情滋はどちらかと言うと突破型のアタッカー。スタイルは全く違うが、兄のように中盤やボランチの位置まで落ちてゲームを作ったり、ドリブルで運んだりと器用に何でもこなそうとしていた。その印象をぶつけると、情滋は少し考えてからこう答えた。
「そうですね、それはあったかと思います。それに高校の時まではみんなが僕にボールを集めようとしてくれていたので、『俺がなんとかしよう』という思いが強すぎたと思います。パスも出そう、シュートもしよう、ドリブルもしようと思いすぎて、自分のストロングを徹底的に伸ばすことができていなかったと思います。自分の中では、周りに弟ではなく、『オナイウ情滋』として知らしめたい思いはずっと持っているのですが、あの時はちょっと空回りしていたかもしれません」
高3の時はチームの完全な中心選手となるが、インターハイも選手権も出場できず。思うようなアピールができぬまま、高卒プロの道は厳しくなってしまった。
ここで初めて兄とは異なる選択をしなければならなくなった。大学進学を決意し、関東の大学を考えたが、そこで情滋は「関東圏では常に『弟』と言われてしまう印象だったので、兄と比較されない場所に行きたい」と思うようになったという。
真っ先に声をかけてくれたのが、新潟医療福祉大の佐熊裕和監督だ。かつて桐光学園高で中村俊輔らを育て上げた名将が、情滋のスピードと突破力を高く評価してくれた。
「佐熊監督が僕のプロの道がなくなっていくなかで、『一緒にプロを目ざさないか』と声をかけてくれた。感謝の気持ちが大きかったし、全く未知な場所で勝負しようと思えた」と、北信越大学リーグでプレーする覚悟を固めた。
「最初、この決断は『う~ん』と首を傾げる人もいたのですが、結局は自分がその決断を正解にすればいいわけなので、マイナスではなくプラスに捉えていきました」
結果として、この決断は大正解だった。高校時代まで親も指導者も「情滋は情滋でいいんだよ」と常に自分を尊重してくれた。しかし、兄と同じ道を辿ったことで、兄の幻想に少し捕われてしまっていた。それが初めて違う道を進み、そこに自分の決断と覚悟を加えたことで、自分をより客観視することができた。
新潟医療福祉大でも「兄を越えようという気持ちはいいけど、兄と同じになる必要はない。自分を貫いてほしい」と、佐熊監督をはじめとしたスタッフ陣が尊重してくれたことも重なって、情滋は徹底的に長所を磨くことに没頭できたのだった。
「佐熊監督が僕のプロの道がなくなっていくなかで、『一緒にプロを目ざさないか』と声をかけてくれた。感謝の気持ちが大きかったし、全く未知な場所で勝負しようと思えた」と、北信越大学リーグでプレーする覚悟を固めた。
「最初、この決断は『う~ん』と首を傾げる人もいたのですが、結局は自分がその決断を正解にすればいいわけなので、マイナスではなくプラスに捉えていきました」
結果として、この決断は大正解だった。高校時代まで親も指導者も「情滋は情滋でいいんだよ」と常に自分を尊重してくれた。しかし、兄と同じ道を辿ったことで、兄の幻想に少し捕われてしまっていた。それが初めて違う道を進み、そこに自分の決断と覚悟を加えたことで、自分をより客観視することができた。
新潟医療福祉大でも「兄を越えようという気持ちはいいけど、兄と同じになる必要はない。自分を貫いてほしい」と、佐熊監督をはじめとしたスタッフ陣が尊重してくれたことも重なって、情滋は徹底的に長所を磨くことに没頭できたのだった。