分裂とは全く正反対の効果をアルゼンチンにもたらした
2021年6月22日、時計の針が16時9分を指した瞬間だった。社会学的な奇跡が起きた。何百万人ものアルゼンチン人が35年前のゴールを心から叫んだのだ。
ここまで時間に正確だったのは、ディエゴ・アルマンド・マラドーナが1986年メキシコ・ワールドカップのイングランド戦で決めた比類なきゴールの35周年を祝福するためだった。
人々の叫びには様々なものが込められていた。フットボールへの愛情、昨年亡くなったディエゴへのオマージュ、アルゼンチン国民を一つにしたあの遠い日の美しい思い出に対する畏敬の念、その時にわれわれの中に掻き立てられた感動、征服心、さらには復讐心へのノスタルジー……。
【動画】アルゼンチン国民が祝ったマラドーナの5人抜きゴールはこちら
ここまで時間に正確だったのは、ディエゴ・アルマンド・マラドーナが1986年メキシコ・ワールドカップのイングランド戦で決めた比類なきゴールの35周年を祝福するためだった。
人々の叫びには様々なものが込められていた。フットボールへの愛情、昨年亡くなったディエゴへのオマージュ、アルゼンチン国民を一つにしたあの遠い日の美しい思い出に対する畏敬の念、その時にわれわれの中に掻き立てられた感動、征服心、さらには復讐心へのノスタルジー……。
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そう、ディエゴのゴールは、分裂とは全く正反対の効果をアルゼンチンにもたらした。あの日、全てのアルゼンチン人がアルゼンチン人であることに誇りを感じた。大衆文化の中核をなすフットボールというスポーツを通して、そしてわれわれを代表する天才のおかげで。
それだけ人と人とを繋ぐ力がフットボールにはある。そして痛切に感じるのだ。あの世へと旅立った後も、今なお健在であるかのように威光を発揮し続けるディエゴという人間の力を。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳:下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。
それだけ人と人とを繋ぐ力がフットボールにはある。そして痛切に感じるのだ。あの世へと旅立った後も、今なお健在であるかのように威光を発揮し続けるディエゴという人間の力を。
文●ホルヘ・バルダーノ
翻訳:下村正幸
【著者プロフィール】
ホルヘ・バルダーノ/1955年10月4日、アルゼンチンのロス・パレハス生まれ。現役時代はストライカーとして活躍し、73年にニューウェルズでプロデビューを飾ると、75年にアラベスへ移籍。79~84年までプレーしたサラゴサでの活躍が認められ、84年にはレアル・マドリーへ入団。87年に現役を引退するまでプレーし、ラ・リーガ制覇とUEFAカップ優勝を2度ずつ成し遂げた。75年にデビューを飾ったアルゼンチン代表では、2度のW杯(82年と86年)に出場し、86年のメキシコ大会では優勝に貢献。現役引退後は、テネリフェ、マドリー、バレンシアの監督を歴任。その後はマドリーのSDや副会長を務めた。現在は、『エル・パイス』紙でコラムを執筆しているほか、解説者としても人気を博している。
※『サッカーダイジェストWEB』では日本独占契約に基づいて『エル・パイス』紙に掲載されたバルダーノ氏のコラムを翻訳配信しています。