「あれがなければ今の僕はなかった」(内田)
2020年8月、32歳の若さで現役生活にピリオドを打った内田篤人は、欧州の舞台でも活躍した日本を代表するサイドバックだった。
元々は攻撃的な選手だったが、サイドバックに転向したのは高校2年の時。“運命のコンバート”はいかにしてなされたのか。清水東高時代の恩師である梅田和男、チームメイトで親友の森屋雄太の言葉を借りて、当時を振り返る。
※本稿は2010年9月1日発行の「日本代表戦士23人の少年時代」に掲載された原稿(一部抜粋・加筆修正)の再録。
2004年の夏、U-16日本代表の切り札として活躍した内田だったが、この頃の彼は、実は壁にぶち当たっていた。彼自身、中盤のアタッカーとしての限界を感じていたのだ。
周囲もそれを感じとっており、清水東高の梅田監督(当時)はそこで大きな決断をする。「あれがなければ今の僕はなかった」(内田)という、右サイドバックへのコンバートだった。
元々は攻撃的な選手だったが、サイドバックに転向したのは高校2年の時。“運命のコンバート”はいかにしてなされたのか。清水東高時代の恩師である梅田和男、チームメイトで親友の森屋雄太の言葉を借りて、当時を振り返る。
※本稿は2010年9月1日発行の「日本代表戦士23人の少年時代」に掲載された原稿(一部抜粋・加筆修正)の再録。
2004年の夏、U-16日本代表の切り札として活躍した内田だったが、この頃の彼は、実は壁にぶち当たっていた。彼自身、中盤のアタッカーとしての限界を感じていたのだ。
周囲もそれを感じとっており、清水東高の梅田監督(当時)はそこで大きな決断をする。「あれがなければ今の僕はなかった」(内田)という、右サイドバックへのコンバートだった。
「その頃、右サイドハーフでボールを持って相手と対峙した時に、なかなか相手を抜き切れなかったり、またボールを上手くもらえないという状況が生まれてきてたんです。だったらもう少し後ろに下がって、前の状況を見ながら出ていったらやりやすいんじゃないかってポジションを下げたんです。非常に素直で、なんでも受け入れるという性格でしたから、コンバートもスムーズでした」(梅田)
この思い切ったコンバートは予想以上の効果をもたらした。もともと持久力には自信があったし、長いボールを蹴るキック力もあった。そしてポジションをひとつ下げたことで、ボディコンタクトの回数が減り、持ち前のスピードがさらに生きるようになったのだ。内田はこれをきっかけに、停滞しつつあった成長のスピードを、急加速的に上げていった。
3年生になる頃、2年後のU-20カナダ・ワールドカップを目指し立ち上げられたU-18日本代表入りを果たす。そこでは、チームを率いた吉田靖監督に「ウチの武器は内田の攻撃力」と言わしめるほど、不動の右サイドバックとして定着していった。その頃にはプレーに自信が満ち溢れ、Jリーグの6、7クラブからオファーが届き、この世代の代表格として、一気に名を轟せた。
この思い切ったコンバートは予想以上の効果をもたらした。もともと持久力には自信があったし、長いボールを蹴るキック力もあった。そしてポジションをひとつ下げたことで、ボディコンタクトの回数が減り、持ち前のスピードがさらに生きるようになったのだ。内田はこれをきっかけに、停滞しつつあった成長のスピードを、急加速的に上げていった。
3年生になる頃、2年後のU-20カナダ・ワールドカップを目指し立ち上げられたU-18日本代表入りを果たす。そこでは、チームを率いた吉田靖監督に「ウチの武器は内田の攻撃力」と言わしめるほど、不動の右サイドバックとして定着していった。その頃にはプレーに自信が満ち溢れ、Jリーグの6、7クラブからオファーが届き、この世代の代表格として、一気に名を轟せた。