ゼンガ――インテル愛を常に口にするも想いはなかなか届かず。
ロベルト・マンチーニが指揮官に返り咲いたインテル。ワルテル・マッザーリ前監督の後を受け、現在はチーム作りに勤しんでいる最中だ。初お目見えの舞台が伝統のミラノダービーというのは、このカリスマ指揮官の持つ強運の表われなのか、あるいはここから苦難が始まるのか……。
そんなマンチーニ就任の裏で、涙を飲んだのがワルテル・ゼンガだ。
1977年から94年(途中に他クラブへのレンタルあり)までインテルでプレーしたGKで、地元開催の90年ワールドカップでは堅固な守備を誇るアズーリの守護神として、517分間無失点というワールドカップ記録を打ち立てた。
米MLSのニューイングランド・レボリューションで現役を退いた後は指導者の道に転じ、アメリカ、ルーマニア、ユーゴスラビア(当時)、トルコ、UAE、サウジアラビアと多くの国を渡り歩いた。
イタリアでは、カターニャ、パレルモを率い、前者では森本貴幸が加入したこともあり、日本でも指導者ゼンガの名は知られることとなった。
今年はUAEのアル・ジャジーラで指揮を執ったが、今秋、突如としてゼンガの名がカルチョの世界で話題に挙がった。マッザーリ監督の解任に伴い、後任候補としてゼンガの名が挙がったのである。しかし……。
「残念だ。私もレースのなかにいたが、インテルはマンチーニを選んだ。夢の実現に近づいていたのだが……」
間もなくして“落選”の報を受けたゼンガは、ツイッターで失望と悔しさを露わにした
今年6月8日、サンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリーとインテルのOBが親善試合を行なったが、そこでインテルOBチームの監督に任命されたのがゼンガ。それだけで大喜びし、アル・ジャジーラの練習を休んでしまうほどだった。
「たとえ親善試合でも、たった1日でも、『俺はインテルを、しかもサンチャゴ・ベルナベウで率いたんだ』と自慢できる。本当にうれしい」と、インテルの公式チャンネルのインタビューで語るゼンガの言葉は、本心そのものだった。
インテルを愛し、94年にジャンルカ・パリュウカと入れ替わる形でサンプドリアへ移籍することになった際、チームを去ることへの悲しみを隠さなかったゼンガ。各国を渡り歩きながらも、常に「目標はインテルの監督になること」と公言し続けてきた。
現役時代は「大舞台ほど力を発揮できる」とみずから語り、現役選手でありながらテレビ番組のMCも務めたことがあるなど、公私で派手な存在だった。そのスター性と旺盛なサービス精神で人々に愛され、今でもインテリスタとの関係は良好である。
今回のインテルの監督交代は、チーム内の空気を入れ替え、ファンの心を取り戻すことが目的だったと言われるが、ならば経験も豊富なゼンガにも十分に資格があったはずだ。
それがマンチーニに監督の座を奪われてしまったのは、ひとつは実績の差があるだろう。率いたチームの実力差があるとはいえ、やはりタイトル獲得歴は選ぶ側からすれば魅力的だ。そしてマンチーニの実績の大半が、このインテルで積まれたということも大きかった。
一方、ゼンガ自身の問題としては、その表裏のない性格が古巣復帰を遠ざけたとも言える。現役時代から思ったことを包み隠さず、時に歯に衣着せぬ物言いをしてきた。その強気な性格は今も変わらない。そして、それを疎ましく思う人間も少なくなかった。
ルーマニアのナショナル・ブカレストを率いていた2002年、「イタリアのクラブ関係者は『扱いづらい人間』というレッテルを私に貼り、それが『信用ならない奴』というものに変わっていった。そんな風潮にウンザリして、私は国外に飛び出した」と語っている。
その後、カターニャやパレルモといったセリエAのクラブを率いたことで、「信用できない奴」ではなくなっただろうが、「ゼンガ=扱いづらい人間」というのは今もカルチョの世界では共通の認識として残っているとも……。
とはいえ、ゼンガは諦めたわけではない。彼は執念深い人間でもある。「私を悪く言った輩どもを見返す」ためにも、最大の夢であるインテルの監督になることが必要なのだ。
そんなマンチーニ就任の裏で、涙を飲んだのがワルテル・ゼンガだ。
1977年から94年(途中に他クラブへのレンタルあり)までインテルでプレーしたGKで、地元開催の90年ワールドカップでは堅固な守備を誇るアズーリの守護神として、517分間無失点というワールドカップ記録を打ち立てた。
米MLSのニューイングランド・レボリューションで現役を退いた後は指導者の道に転じ、アメリカ、ルーマニア、ユーゴスラビア(当時)、トルコ、UAE、サウジアラビアと多くの国を渡り歩いた。
イタリアでは、カターニャ、パレルモを率い、前者では森本貴幸が加入したこともあり、日本でも指導者ゼンガの名は知られることとなった。
今年はUAEのアル・ジャジーラで指揮を執ったが、今秋、突如としてゼンガの名がカルチョの世界で話題に挙がった。マッザーリ監督の解任に伴い、後任候補としてゼンガの名が挙がったのである。しかし……。
「残念だ。私もレースのなかにいたが、インテルはマンチーニを選んだ。夢の実現に近づいていたのだが……」
間もなくして“落選”の報を受けたゼンガは、ツイッターで失望と悔しさを露わにした
今年6月8日、サンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリーとインテルのOBが親善試合を行なったが、そこでインテルOBチームの監督に任命されたのがゼンガ。それだけで大喜びし、アル・ジャジーラの練習を休んでしまうほどだった。
「たとえ親善試合でも、たった1日でも、『俺はインテルを、しかもサンチャゴ・ベルナベウで率いたんだ』と自慢できる。本当にうれしい」と、インテルの公式チャンネルのインタビューで語るゼンガの言葉は、本心そのものだった。
インテルを愛し、94年にジャンルカ・パリュウカと入れ替わる形でサンプドリアへ移籍することになった際、チームを去ることへの悲しみを隠さなかったゼンガ。各国を渡り歩きながらも、常に「目標はインテルの監督になること」と公言し続けてきた。
現役時代は「大舞台ほど力を発揮できる」とみずから語り、現役選手でありながらテレビ番組のMCも務めたことがあるなど、公私で派手な存在だった。そのスター性と旺盛なサービス精神で人々に愛され、今でもインテリスタとの関係は良好である。
今回のインテルの監督交代は、チーム内の空気を入れ替え、ファンの心を取り戻すことが目的だったと言われるが、ならば経験も豊富なゼンガにも十分に資格があったはずだ。
それがマンチーニに監督の座を奪われてしまったのは、ひとつは実績の差があるだろう。率いたチームの実力差があるとはいえ、やはりタイトル獲得歴は選ぶ側からすれば魅力的だ。そしてマンチーニの実績の大半が、このインテルで積まれたということも大きかった。
一方、ゼンガ自身の問題としては、その表裏のない性格が古巣復帰を遠ざけたとも言える。現役時代から思ったことを包み隠さず、時に歯に衣着せぬ物言いをしてきた。その強気な性格は今も変わらない。そして、それを疎ましく思う人間も少なくなかった。
ルーマニアのナショナル・ブカレストを率いていた2002年、「イタリアのクラブ関係者は『扱いづらい人間』というレッテルを私に貼り、それが『信用ならない奴』というものに変わっていった。そんな風潮にウンザリして、私は国外に飛び出した」と語っている。
その後、カターニャやパレルモといったセリエAのクラブを率いたことで、「信用できない奴」ではなくなっただろうが、「ゼンガ=扱いづらい人間」というのは今もカルチョの世界では共通の認識として残っているとも……。
とはいえ、ゼンガは諦めたわけではない。彼は執念深い人間でもある。「私を悪く言った輩どもを見返す」ためにも、最大の夢であるインテルの監督になることが必要なのだ。