勝ち続けても「ポイ捨て」された歴史的名将
戦術が適合するかどうか。
それには、民族性、国民性、地域性のようなものが強く影響している。
例えば、1950年代後半、スペインで一世を風靡した指揮官がいた。エレニオ・エレーラという監督で、1958—59、59—60シーズンには、バルセロナでリーガ・エスパニョーラ連覇を経験。当時、欧州5連覇で無敵の強さを誇ったレアル・マドリーに、唯一対抗することができたチームだった。
1959—60シーズンのチャンピオンズ・カップ(現リーグ)では、準決勝でマドリーに敗れたものの、エレーラ監督の功績は高く評価されてしかるべきものだった。
それには、民族性、国民性、地域性のようなものが強く影響している。
例えば、1950年代後半、スペインで一世を風靡した指揮官がいた。エレニオ・エレーラという監督で、1958—59、59—60シーズンには、バルセロナでリーガ・エスパニョーラ連覇を経験。当時、欧州5連覇で無敵の強さを誇ったレアル・マドリーに、唯一対抗することができたチームだった。
1959—60シーズンのチャンピオンズ・カップ(現リーグ)では、準決勝でマドリーに敗れたものの、エレーラ監督の功績は高く評価されてしかるべきものだった。
ところが、前述のリーガ2連覇の後、このアルゼンチン出身の指揮官は電撃的に解任されてしまう。理由は、以下の通りだ。
「サッカーが守備的すぎて、つまらない」
ファンの人気は上がらず、リスペクトもされない。おまけに、当時のエースだったラディスラオ・クバラと衝突した指揮官エレーラは、勝ち続けたにもかかわらず、「ポイ捨て」されることになってしまった。
サッカーにおいては、革新的なもの、あるいは創造的なものを愛する風土のあるカタルーニャ人(州都バルセロナを中心に)にとって、実務的で、効率に偏ったサッカーは受け入れられなかったのだ。
ところが新天地のイタリアでは、エレーラはまるで神のごとく愛された。
インテルを指揮した彼は、30年代にオーストリア人指導者のカール・ラパンが考え出した「カテナッチョ(イタリア語の『南京錠』)」という超守備的な戦術を、実践的にアップデート。中盤で相手の攻撃を封じるラインを敷いて、バックラインはアタッカーをマンマークし、最後尾をリベロが守った。
「グランデ・インテル」
その称号で、エレーラのインテルは崇拝されることとなったのである。
3度のセリエA優勝、2度の欧州制覇。それは、どの監督もなし得なかった大偉業だったが、それよりも特筆すべきは、ディフェンスの効率と強度の高さを「芸術」としたのが、イタリア人だったという点だろう。