「10番をくれないならプレーしない」と豪語したことが仇となったポルトガル代表MF。

高額移籍金を手にしながら、プレミアリーグの水に馴染めずに短年で他リーグへと移籍したスターたちを紹介する。(C) Getty Images

ジョージ・ウェア (C) Getty Images
3月21日、マンチェスター・Uはバスティアン・シュバインシュタイガーをMLSのシカゴ・ファイアーに放出することを公式サイト上で発表した。
2015年夏にバイエルンから移籍した元ドイツ代表MFだったが、在籍した2シーズンでプレミアリーグ出場はわずか18試合。公式戦のゴール数はわずか2と、期待を裏切る結果となった。
そんなシュバインシュタイガーのようにプレミアリーグへ移籍した途端に不振を極め、キャリアを棒に振ったスタープレーヤーたち10人を、英紙『デイリー・メール』が紹介している。
――◆―――◆――
ジョージ・ウェア(FW)
2000年1月:ミラン→チェルシー
2000年7月:ミラン→マンチェスター・C
ミランでは類いまれな身体能力と高い決定力を誇り、退団したマルコ・ファン・バステンの穴を埋める活躍で『リベリアの怪人』の異名で恐れられた。1995年にはバロンドールを欧州出身者以外では初受賞したことでも知られる。
そんな巨漢FWは、34歳となった2000年の1月にチェルシーへレンタル移籍。デビューとなったトッテナム戦でゴールを決めるなど上々のスタートを切ったが、ジャンルカ・ヴィアッリ監督の下で徐々に出場機会を失い、同年夏にマンチェスター・Cへと移った。
しかし、週3000ポンド(約42万円)という高給に見合った活躍ができず、ここでもウェアは指揮官のジョー・コイルに見放された。
引退後にウェアは、「お金のために来たつもりはなかった。ミランに残ることもできたんだ。誰かが、私にそのことは黙ってろと言ったんだ」と語っている。
2015年夏にバイエルンから移籍した元ドイツ代表MFだったが、在籍した2シーズンでプレミアリーグ出場はわずか18試合。公式戦のゴール数はわずか2と、期待を裏切る結果となった。
そんなシュバインシュタイガーのようにプレミアリーグへ移籍した途端に不振を極め、キャリアを棒に振ったスタープレーヤーたち10人を、英紙『デイリー・メール』が紹介している。
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ジョージ・ウェア(FW)
2000年1月:ミラン→チェルシー
2000年7月:ミラン→マンチェスター・C
ミランでは類いまれな身体能力と高い決定力を誇り、退団したマルコ・ファン・バステンの穴を埋める活躍で『リベリアの怪人』の異名で恐れられた。1995年にはバロンドールを欧州出身者以外では初受賞したことでも知られる。
そんな巨漢FWは、34歳となった2000年の1月にチェルシーへレンタル移籍。デビューとなったトッテナム戦でゴールを決めるなど上々のスタートを切ったが、ジャンルカ・ヴィアッリ監督の下で徐々に出場機会を失い、同年夏にマンチェスター・Cへと移った。
しかし、週3000ポンド(約42万円)という高給に見合った活躍ができず、ここでもウェアは指揮官のジョー・コイルに見放された。
引退後にウェアは、「お金のために来たつもりはなかった。ミランに残ることもできたんだ。誰かが、私にそのことは黙ってろと言ったんだ」と語っている。
パウロ・フットレ(FW)
1996年7月:ミラン→ウェストハム
ポルトやA・マドリーなどで活躍し、「欧州のマラドーナ」と称えられたポルトガル人アタッカーも、ウェアと同様にミランからプレミアリーグに渡った。その期待度は当時のウェストハム指揮官だったハリー・レドナップの「私の見てきたなかでトップ10の選手だ」という言葉からも分かる。
しかし、プライドの高さが彼のキャリアの障壁となる。「背番号10をもらうまではプレーしない」という仰天発言を公の場でしてしまったのだ。
これで信頼を失ったフットレはプレミアリーグ出場が9試合に留まり、わずか1シーズンで古巣のA・マドリーへ戻った。それだけにウェストハム・ファンの記憶には悪い印象が残っただけだった……。
1996年7月:ミラン→ウェストハム
ポルトやA・マドリーなどで活躍し、「欧州のマラドーナ」と称えられたポルトガル人アタッカーも、ウェアと同様にミランからプレミアリーグに渡った。その期待度は当時のウェストハム指揮官だったハリー・レドナップの「私の見てきたなかでトップ10の選手だ」という言葉からも分かる。
しかし、プライドの高さが彼のキャリアの障壁となる。「背番号10をもらうまではプレーしない」という仰天発言を公の場でしてしまったのだ。
これで信頼を失ったフットレはプレミアリーグ出場が9試合に留まり、わずか1シーズンで古巣のA・マドリーへ戻った。それだけにウェストハム・ファンの記憶には悪い印象が残っただけだった……。