バルサで全てのタイトルを取り尽くした男に欠けているのは…。

年齢的には大ベテランの部類に入りつつあるアウベスだが、しばらくはより円熟味の増したSBのプレーを見せてくれそうだ。 (C) Getty Images

最多キャップ数を誇るカフー(142試合)。代表選手として輝かしい経歴を誇る彼は、クラブレベルでもサンパウロとミランで全てのタイトルを獲り尽くした。 (C) Getty Images
◇ダニエウ・アウベス:1983年5月6日生まれ ブラジル・ジュアゼイロ出身
バルセロナの右サイドを頻繁に上下し、攻撃選手顔負けの突破からパス出し、シュートを見せたかと思えば、守備では堅実かつ粘り強いプレーで相手攻撃選手を封じ込める。
ダニエウ・アウベスの魅力は多岐にわたる。驚異的なスタミナ、技術、そして戦術理解力も非常に高く、常にチーム全体のバランスを取ることを忘れない。また、決して右サイドに張りつくだけでなく、必要に応じて中央に入り、攻守で効果的なプレーも見せる。
そんなクレバーなSBは2001年、母国ブラジルのクラブ、バイーアでプロとしてのキャリアをスタート。ブラジルの多くのDFがそうであるように、少年時代は攻撃的な選手としてプレーしたが、父親の判断で早いうちにSBに転向していた。
バイーア、そしてU-20ブラジル代表での活躍が、セビージャの目に止まり、02-03シーズン途中にリーガ・エスパニョーラに参戦。ファーストシーズンは9試合に出場した。
03年夏にワールドユース(現U-20ワールドカップ)で優勝に大貢献したアウベスは、その後のシーズンでセビージャでも能力を発揮。ジュリオ・バチスタとのホットラインで多くのゴールを生み出した。
このクラブでは、6シーズンの在籍期間で国王杯1回、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)2回などのタイトル獲得を経験。彼は攻撃的なSBとして、これらの勝利の原動力となった。
在籍中、リバプールやチェルシーといったクラブへの移籍話が浮上するも実現せずにいたが、08年夏、ついにセビージャに別れを告げる。行き先はイングランではなく、同じスペインのバルセロナだった。
入団会見時にはセビージャを思って涙を流したアウベス。前年には移籍が噂されながらも、開幕戦でアントニオ・プエルタが急死したことを受けて残留を決意するなど、彼の優しい人間性を示すエピソードは多い。
ジョゼップ・グアルディオラが監督に就任したばかりのバルサは、ここから無敵のチームとして長い黄金時代に突入することとなるが、そのなかでアウベスはリオネル・メッシと右サイドのホットラインを形成し、攻撃を活性化させた。
11-12シーズンに3-4-3システムが採用された時以外は、常に不動の右SBとして君臨してきたアウベス。ここまで、リーガ5回、国王杯2回、チャンピオンズ・リーグ3回、クラブワールドカップ3回という輝かしいタイトル歴を誇っている。
また彼は、06年からA代表としてのキャリアも継続している。ワールドカップには10年南アフリカ大会から2大会連続で出場。10年大会ではMFとして3試合で、自国開催の14年大会では右SBのレギュラーとしてプレーした。
セレソンでは07年のコパ・アメリカ、09、13年のコンフェデレーションズ・カップで優勝を経験。しかし、2度のワールドカップでは失意を味わった。33歳となった彼にまだ衰えは感じられないが、2年後に世界制覇を狙うチャンスは訪れるだろうか。
セレソンの長い歴史においては、多くの右SBの名手が存在した。古くは圧倒的な守備力を誇った60年代以前のジャウマ・サントス、史上最強の誉れ高き70年W杯のチームをキャプテンとして率いたカルロス・アルベルト、最も魅力的だった82年W杯のチームで頻繁に攻撃参加を見せたレアンドロ……。
さらには、86年W杯で突如出現して強烈なシュートを放ちまくったジョジマール、94年W杯で栄光のメンバーとなったジョルジーニョ、長くセレソンで君臨し、02年W杯で黄金のトロフィーを真っ先に掲げたカフーと、系譜は続いてきた。
そして、攻撃力抜群だった10年W杯のマイコンの後を継いで、今、右SBに君臨しているのがアウベスである。バトンを次世代に引き継ぐ前に、世界一の称号を得たいところだろう。
バルセロナの右サイドを頻繁に上下し、攻撃選手顔負けの突破からパス出し、シュートを見せたかと思えば、守備では堅実かつ粘り強いプレーで相手攻撃選手を封じ込める。
ダニエウ・アウベスの魅力は多岐にわたる。驚異的なスタミナ、技術、そして戦術理解力も非常に高く、常にチーム全体のバランスを取ることを忘れない。また、決して右サイドに張りつくだけでなく、必要に応じて中央に入り、攻守で効果的なプレーも見せる。
そんなクレバーなSBは2001年、母国ブラジルのクラブ、バイーアでプロとしてのキャリアをスタート。ブラジルの多くのDFがそうであるように、少年時代は攻撃的な選手としてプレーしたが、父親の判断で早いうちにSBに転向していた。
バイーア、そしてU-20ブラジル代表での活躍が、セビージャの目に止まり、02-03シーズン途中にリーガ・エスパニョーラに参戦。ファーストシーズンは9試合に出場した。
03年夏にワールドユース(現U-20ワールドカップ)で優勝に大貢献したアウベスは、その後のシーズンでセビージャでも能力を発揮。ジュリオ・バチスタとのホットラインで多くのゴールを生み出した。
このクラブでは、6シーズンの在籍期間で国王杯1回、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)2回などのタイトル獲得を経験。彼は攻撃的なSBとして、これらの勝利の原動力となった。
在籍中、リバプールやチェルシーといったクラブへの移籍話が浮上するも実現せずにいたが、08年夏、ついにセビージャに別れを告げる。行き先はイングランではなく、同じスペインのバルセロナだった。
入団会見時にはセビージャを思って涙を流したアウベス。前年には移籍が噂されながらも、開幕戦でアントニオ・プエルタが急死したことを受けて残留を決意するなど、彼の優しい人間性を示すエピソードは多い。
ジョゼップ・グアルディオラが監督に就任したばかりのバルサは、ここから無敵のチームとして長い黄金時代に突入することとなるが、そのなかでアウベスはリオネル・メッシと右サイドのホットラインを形成し、攻撃を活性化させた。
11-12シーズンに3-4-3システムが採用された時以外は、常に不動の右SBとして君臨してきたアウベス。ここまで、リーガ5回、国王杯2回、チャンピオンズ・リーグ3回、クラブワールドカップ3回という輝かしいタイトル歴を誇っている。
また彼は、06年からA代表としてのキャリアも継続している。ワールドカップには10年南アフリカ大会から2大会連続で出場。10年大会ではMFとして3試合で、自国開催の14年大会では右SBのレギュラーとしてプレーした。
セレソンでは07年のコパ・アメリカ、09、13年のコンフェデレーションズ・カップで優勝を経験。しかし、2度のワールドカップでは失意を味わった。33歳となった彼にまだ衰えは感じられないが、2年後に世界制覇を狙うチャンスは訪れるだろうか。
セレソンの長い歴史においては、多くの右SBの名手が存在した。古くは圧倒的な守備力を誇った60年代以前のジャウマ・サントス、史上最強の誉れ高き70年W杯のチームをキャプテンとして率いたカルロス・アルベルト、最も魅力的だった82年W杯のチームで頻繁に攻撃参加を見せたレアンドロ……。
さらには、86年W杯で突如出現して強烈なシュートを放ちまくったジョジマール、94年W杯で栄光のメンバーとなったジョルジーニョ、長くセレソンで君臨し、02年W杯で黄金のトロフィーを真っ先に掲げたカフーと、系譜は続いてきた。
そして、攻撃力抜群だった10年W杯のマイコンの後を継いで、今、右SBに君臨しているのがアウベスである。バトンを次世代に引き継ぐ前に、世界一の称号を得たいところだろう。

名手レアンドロの大会直前の出場辞退で最終メンバーに滑り込み、主力選手の怪我によって出番を得た86年W杯のジョジマール。北アイルランド戦で強烈なロングシュートを決め、ポーランド戦ではDFラインをドリブル突破し、角度のない位置から強烈なシュートでGKの頭上を抜いた。新星として脚光を浴びたものの、素行の悪さなどもあって、セレソンに定着できなかった。 (C) Getty Images

偉大な70年W杯のセレソン。この天才揃いのチームを統率したカルロス・アルベルト(写真上段右端)は、歴史に残るキャプテンといわれている。イタリアとの決勝戦で決めた、ペレのアシストを受けての4点目の弾丸シュートは、当時のセレソンの勢いを象徴する栄光のゴールとして語り継がれている。 (C) Getty Images