2001年のU-17世界選手権のMVP&得点王
フロラン・シナマ=ポンゴル(FW/元フランス代表)
■生年月日/1984年10月20日
■身長・体重/176センチ・69キロ(現役当時)
リバプールのサポーターにとっては記憶に残るヒーローだ。あのゴールは、いまでも彼らの心を熱くする。
2004-05シーズンのチャンピオンズ・リーグ(CL)、グループステージ最終戦のオリンピアコス戦だ。16強進出には2点差以上の勝利が必要なリバプールは、先制を許し0-1で前半を折り返す。この窮地を救ったのが、後半頭から投入された20歳のフロラン・シナマ=ポンゴルだった。ピッチに立ってわずか2分後、ハリー・キューウェルの折り返しにニアサイドで合わせ、同点のネットを揺らす。
これで攻勢に転じたリバプールは1点を勝ち越し、迎えた86分、スティーブン・ジェラードのキャノン砲が炸裂して勝ち上がりを決めると、運命に導かれるように決勝へと駒を進め、ミランを大逆転で下す「イスタンブールの奇跡」で劇的な欧州制覇を果たすのだ。その端緒を開いたのが、あの同点弾だった。
もっとも、アンフィールドに残した足跡はこの一発だけだ。公式戦65試合の出場で9ゴールは、16歳で契約を結び、18歳で加入した逸材にとって、期待を大きく裏切る結果でしかない。
■生年月日/1984年10月20日
■身長・体重/176センチ・69キロ(現役当時)
リバプールのサポーターにとっては記憶に残るヒーローだ。あのゴールは、いまでも彼らの心を熱くする。
2004-05シーズンのチャンピオンズ・リーグ(CL)、グループステージ最終戦のオリンピアコス戦だ。16強進出には2点差以上の勝利が必要なリバプールは、先制を許し0-1で前半を折り返す。この窮地を救ったのが、後半頭から投入された20歳のフロラン・シナマ=ポンゴルだった。ピッチに立ってわずか2分後、ハリー・キューウェルの折り返しにニアサイドで合わせ、同点のネットを揺らす。
これで攻勢に転じたリバプールは1点を勝ち越し、迎えた86分、スティーブン・ジェラードのキャノン砲が炸裂して勝ち上がりを決めると、運命に導かれるように決勝へと駒を進め、ミランを大逆転で下す「イスタンブールの奇跡」で劇的な欧州制覇を果たすのだ。その端緒を開いたのが、あの同点弾だった。
もっとも、アンフィールドに残した足跡はこの一発だけだ。公式戦65試合の出場で9ゴールは、16歳で契約を結び、18歳で加入した逸材にとって、期待を大きく裏切る結果でしかない。
インド洋に浮かぶフランスの海外県、レユニオン島で生まれたシナマ=ポンゴルが最初に脚光を浴びたのは、01年のU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)だった。6試合で9ゴールを挙げてフランスを優勝に導き、大会MVPに得点王と個人賞を独占した。スピーティーな突破と決定力を存分に発揮し、アメリカ戦と日本戦でハットトリックを決め、決勝では先制点を奪うなど、強烈なインパクトを放った。
大会後に決まったのがリバプール移籍だった。2年間はレンタルでル・アーブルにそのまま残り、03年夏に加入することで話はまとまった。この時、一緒に移籍したのがアントニー・ル・タレクだ。いとこでもあるル・タレクとはル・アーブルとフランスU-17代表でもコンビを組み、猛威を振るった。
同胞のジェラール・ウリエ監督のもと、フランス語圏の選手が数多く在籍する当時のチームは、フランスの若き才能にとって理想的な環境だった。しかし、すぐに転機が訪れる。03-04シーズン終了後、ウリエが成績不振で退陣し、スペイン人のラファエル・ベニテスが取って代わったのだ。
これを機に“スペイン化”が進行し、フェルナンド・モリエンテス、ピーター・クラウチという基準点型のCFを好むベニテスの志向もあり、セカンドトップ型のフランス人は次第に脇に追いやられ、不慣れなサイドでの起用にも苦しんだ。あの伝説の同点弾はベニテスの1年目だが、CL決勝はベンチに入れず、イスタンブールの奇跡は傍観するしかなかった。
大会後に決まったのがリバプール移籍だった。2年間はレンタルでル・アーブルにそのまま残り、03年夏に加入することで話はまとまった。この時、一緒に移籍したのがアントニー・ル・タレクだ。いとこでもあるル・タレクとはル・アーブルとフランスU-17代表でもコンビを組み、猛威を振るった。
同胞のジェラール・ウリエ監督のもと、フランス語圏の選手が数多く在籍する当時のチームは、フランスの若き才能にとって理想的な環境だった。しかし、すぐに転機が訪れる。03-04シーズン終了後、ウリエが成績不振で退陣し、スペイン人のラファエル・ベニテスが取って代わったのだ。
これを機に“スペイン化”が進行し、フェルナンド・モリエンテス、ピーター・クラウチという基準点型のCFを好むベニテスの志向もあり、セカンドトップ型のフランス人は次第に脇に追いやられ、不慣れなサイドでの起用にも苦しんだ。あの伝説の同点弾はベニテスの1年目だが、CL決勝はベンチに入れず、イスタンブールの奇跡は傍観するしかなかった。