清水時代に初めて親元を離れ、精神的にも大きく成長した。
結局、ルーキーイヤーに出場した公式戦は2試合。J1に昇格した横浜FCでプロ2年目を迎えるにあたり、宏介には確かな焦りがあった。
「シーズンが始まる前に1か月くらい短期留学でブラジルに行かされました。これはつまり、クラブからあまり評価されていない、明らかに力不足だと言われているのと同じことで、このままじゃダメだと思いました。消極的なスタンスを振り払って、確かな意図を持って練習に取り組もうと改めて決心を固めました」
高木琢也監督の熱血指導とアドバイスのおかげもあり、プロ2年目の宏介はJ1の舞台で出番を増やしていった。それまで以上にサッカーと真摯に向き合う姿勢が報われ、U-20日本代表にも選ばれた。同U-19の経験もあったが、高校の恩師・石井に言わせれば「07年7月のU-20カナダ・ワールドカップに出場できたのが、後の成長につながる大きなターニングポイントだった」。
「トゥーロン国際大会で(金崎)夢生が怪我をして、追加招集されたメンバーが俺だったんです。そのままワールドカップに行けたので、運も味方につけました」(宏介)
そのカナダ大会では、ナイジェリアとのグループリーグ第3戦にフル出場するなど、ベスト16入りに貢献。世界レベルを肌で感じ、そこで得た経験を糧にDFとしてのベースを築いていく。そしてプロ3年目になると、J2に降格した横浜FCを立て直すために監督就任した都並敏史の下で、左SBとして本格的にしごかれた。
「今のプレースタイルに辿り着くうえで、都並さんとの出会いは欠かせません。都並さんの下で基礎的な部分をコツコツと反復練習して、リーグ戦(J2)が終わる頃にはJ1でもやっていける自信が付きましたからね。
あとは、自分の前(左サイドハーフ)でプレーしていたアツさん(三浦淳寛)にも感謝しています。『俺が持ったらオーバーラップしろ。シンプルに出すからとにかく仕掛けろ、ミスしても俺がカバーするから、とにかく気持ち良くやれ』ってそう言われて嬉しかったです。アツさんは俺の師匠です」
こうして左SBの才能を開花させた宏介は、09年1月に横浜FCから清水に移籍。親元を離れるのは、精神面を磨くうえでひとつのチャレンジだった。母・祐子は言う。
「小さい頃から宏介はかなりの人見知りでした。セレクションなんかを受けた際も、『知らない子たちとやりたくない』と言うぐらいでしたからね。環境を変えるのを怖がる側面は持っていました。だから、清水に加入して初めてひとり暮らしを始めた頃は、よく電話がありました」
ところが、清水でキャリアと年齢を重ねるうちに人見知りはなくなり、人間としての幅を広げるようになる。
「ある時から電話がなくなりました。チームの人たちと仲良くなって、プライベートでは家を行き来して遊んでいたみたいです。さらなるステップアップを目指してFC東京に移ってからも、それは変わりません。宏介の周りにはいつも良い友だちがたくさんいます」(祐子)
仲間──。宏介が日本代表に登り詰めるうえでも、それは欠かせないファクターだった。
「チームメイトには恵まれました。横浜FCには往年のスターがたくさんいて、清水には小野伸二さんや高原直泰さん、リュングベリ、オカちゃん(岡崎慎司)。FC東京に来たらナオさん(石川直宏)、ニュウさん(羽生直剛)というように、ひとりずつ挙げていけば切りがないですが、なかでも同世代のモリゲ(森重真人)と(高橋)秀人が代表に入って活躍している姿が一番の刺激になりました。俺も負けていられないって。
U-20代表時代に仲良くなった選手たちの存在も大きいです。彼らがいたからここまで頑張れましたし、フル代表の合宿で再会するとまた大きな刺激をもらえる。いろんな人との出会いは僕の財産です」
「シーズンが始まる前に1か月くらい短期留学でブラジルに行かされました。これはつまり、クラブからあまり評価されていない、明らかに力不足だと言われているのと同じことで、このままじゃダメだと思いました。消極的なスタンスを振り払って、確かな意図を持って練習に取り組もうと改めて決心を固めました」
高木琢也監督の熱血指導とアドバイスのおかげもあり、プロ2年目の宏介はJ1の舞台で出番を増やしていった。それまで以上にサッカーと真摯に向き合う姿勢が報われ、U-20日本代表にも選ばれた。同U-19の経験もあったが、高校の恩師・石井に言わせれば「07年7月のU-20カナダ・ワールドカップに出場できたのが、後の成長につながる大きなターニングポイントだった」。
「トゥーロン国際大会で(金崎)夢生が怪我をして、追加招集されたメンバーが俺だったんです。そのままワールドカップに行けたので、運も味方につけました」(宏介)
そのカナダ大会では、ナイジェリアとのグループリーグ第3戦にフル出場するなど、ベスト16入りに貢献。世界レベルを肌で感じ、そこで得た経験を糧にDFとしてのベースを築いていく。そしてプロ3年目になると、J2に降格した横浜FCを立て直すために監督就任した都並敏史の下で、左SBとして本格的にしごかれた。
「今のプレースタイルに辿り着くうえで、都並さんとの出会いは欠かせません。都並さんの下で基礎的な部分をコツコツと反復練習して、リーグ戦(J2)が終わる頃にはJ1でもやっていける自信が付きましたからね。
あとは、自分の前(左サイドハーフ)でプレーしていたアツさん(三浦淳寛)にも感謝しています。『俺が持ったらオーバーラップしろ。シンプルに出すからとにかく仕掛けろ、ミスしても俺がカバーするから、とにかく気持ち良くやれ』ってそう言われて嬉しかったです。アツさんは俺の師匠です」
こうして左SBの才能を開花させた宏介は、09年1月に横浜FCから清水に移籍。親元を離れるのは、精神面を磨くうえでひとつのチャレンジだった。母・祐子は言う。
「小さい頃から宏介はかなりの人見知りでした。セレクションなんかを受けた際も、『知らない子たちとやりたくない』と言うぐらいでしたからね。環境を変えるのを怖がる側面は持っていました。だから、清水に加入して初めてひとり暮らしを始めた頃は、よく電話がありました」
ところが、清水でキャリアと年齢を重ねるうちに人見知りはなくなり、人間としての幅を広げるようになる。
「ある時から電話がなくなりました。チームの人たちと仲良くなって、プライベートでは家を行き来して遊んでいたみたいです。さらなるステップアップを目指してFC東京に移ってからも、それは変わりません。宏介の周りにはいつも良い友だちがたくさんいます」(祐子)
仲間──。宏介が日本代表に登り詰めるうえでも、それは欠かせないファクターだった。
「チームメイトには恵まれました。横浜FCには往年のスターがたくさんいて、清水には小野伸二さんや高原直泰さん、リュングベリ、オカちゃん(岡崎慎司)。FC東京に来たらナオさん(石川直宏)、ニュウさん(羽生直剛)というように、ひとりずつ挙げていけば切りがないですが、なかでも同世代のモリゲ(森重真人)と(高橋)秀人が代表に入って活躍している姿が一番の刺激になりました。俺も負けていられないって。
U-20代表時代に仲良くなった選手たちの存在も大きいです。彼らがいたからここまで頑張れましたし、フル代表の合宿で再会するとまた大きな刺激をもらえる。いろんな人との出会いは僕の財産です」