浦和行きを後押しした、先輩の宮崎智彦(現・磐田)のひと言。
3年の夏に一軍入りを果たし、人生初のサイドバックにも挑戦した。中野雄二総監督からの「持ち味は前に仕掛ける姿勢。絶対に後ろに下げるな」というアドバイスを胸に、ボールを持てば、まず仕掛ける姿勢を貫き、ドリブルやキックに磨きをかけた。
ただプロを目指す宇賀神のもとには4年生になっても、Jクラブからは一向に声が掛からなかった。JFLの企業チームが獲得を検討しているという話を知り、心も揺れた。
そんななか、浦和から練習参加の声が掛かったのだ。フォルカー・フィンケ体制下、クラブは若返りを進めていた時期だ。浦和にはユース時代の顔馴染みもいたが、宇賀神にとっては、ある意味、ライバル。この唯一無二のチャンスを掴むことに、まさに必死だった。そして浦和の練習場である大原グラウンドで、「流経大の代表として、4年間の想いをぶつけた」。
執念が結実し、宇賀神は浦和の特別指定選手に認められる。さらに、その後はまさかの展開が待っていた。浦和、さらにアビスパ福岡からオファーが届いたのだ。
ここで再び宇賀神は人生の選択に迷った。出場チャンスの確率が高そうなJ2の福岡に行くべきか、J1の“古巣”でプレーすべきか。その迷いを先輩にぶつけてみたなかで、ひとつ上で鹿島に進みながら出場機会を得られずにいた宮崎智彦(現・磐田)からの「俺はアントラーズを選んで正解だった。なんの後悔もしていない」という言葉が心に突き刺さった。
俺だって、少しでも高いレベルでプレーしようと思ってやってきたはずだ——と。宇賀神は浦和に進むことを決めた。
2010年のルーキーイヤー、「実に賢いプレーをしている」とフォルカー・フィンケ監督に適応力の高さを買われ、開幕の鹿島戦で左SBの先発に抜擢された。
ただ2012年に現在のペトロヴィッチ監督が就任したあと、最初の10試合は一度も出場機会すら得られなかった。が……ナビスコカップ・グループリーグの川崎戦で再びチャンスを活かしてゴールを決め、そこからスタメンの座を掴んでみせた。
13年からこれまで、不動の左ウイングバックとして活躍。チーム状況に応じて、右ウイングバック、両ストッパーをこなしてきた。ペトロヴィッチ監督の戦術を理解し、浦和のバランスを整えつつ、ダイナミックなサイドアタックやカットインからゴールをもたらしてきた。
ただプロを目指す宇賀神のもとには4年生になっても、Jクラブからは一向に声が掛からなかった。JFLの企業チームが獲得を検討しているという話を知り、心も揺れた。
そんななか、浦和から練習参加の声が掛かったのだ。フォルカー・フィンケ体制下、クラブは若返りを進めていた時期だ。浦和にはユース時代の顔馴染みもいたが、宇賀神にとっては、ある意味、ライバル。この唯一無二のチャンスを掴むことに、まさに必死だった。そして浦和の練習場である大原グラウンドで、「流経大の代表として、4年間の想いをぶつけた」。
執念が結実し、宇賀神は浦和の特別指定選手に認められる。さらに、その後はまさかの展開が待っていた。浦和、さらにアビスパ福岡からオファーが届いたのだ。
ここで再び宇賀神は人生の選択に迷った。出場チャンスの確率が高そうなJ2の福岡に行くべきか、J1の“古巣”でプレーすべきか。その迷いを先輩にぶつけてみたなかで、ひとつ上で鹿島に進みながら出場機会を得られずにいた宮崎智彦(現・磐田)からの「俺はアントラーズを選んで正解だった。なんの後悔もしていない」という言葉が心に突き刺さった。
俺だって、少しでも高いレベルでプレーしようと思ってやってきたはずだ——と。宇賀神は浦和に進むことを決めた。
2010年のルーキーイヤー、「実に賢いプレーをしている」とフォルカー・フィンケ監督に適応力の高さを買われ、開幕の鹿島戦で左SBの先発に抜擢された。
ただ2012年に現在のペトロヴィッチ監督が就任したあと、最初の10試合は一度も出場機会すら得られなかった。が……ナビスコカップ・グループリーグの川崎戦で再びチャンスを活かしてゴールを決め、そこからスタメンの座を掴んでみせた。
13年からこれまで、不動の左ウイングバックとして活躍。チーム状況に応じて、右ウイングバック、両ストッパーをこなしてきた。ペトロヴィッチ監督の戦術を理解し、浦和のバランスを整えつつ、ダイナミックなサイドアタックやカットインからゴールをもたらしてきた。