サッカー界における「CQ」の高さとはその国のサッカー文化を知り、結果に繋げること
日本ではセンターフォワードは育たないと言われる。なぜか。
それは厳しいことを言うなら、今の日本は優秀なセンターフォワードが次から次へと育成されるほどサッカーの「CQ」が高くないということだ。
率直に言って、はっきりと物を言えない文化のもとでは、優秀なセンターフォワードは生まれないだろう。はっきり物が言えない人たち。顔が見えなければ物が言える。顔が見えなければ裸で人前に出られる。それが今の日本の文化だとしたら、良いセンターフォワードは育たない。
シュートを外すのが怖くてシュートを打たない。怒られるのが怖い? 外すのが恥ずかしい? 自分の責任にされるのが嫌だ?
これも日本の文化に由来する日本人選手の気質で、日本人選手の「CQ」なのであろうか? もしそうなら、センターフォワードや決定的な仕事ができる選手は育たない。イコール世界レベルのリーグで通用する選手は生まれない、となるだろう。
ブラジル人選手はシュートを外しても謝らない。何が悪いのかという顔をしている。その顔は「次は入れる(ゴールする)から」という顔だ。
日本の選手は謝る。僕であればパスミスをすれば軽く手で謝る癖があるであろう……。ブラジルの選手も日本が長くなり学び、謝る選手も増えた。日本の文化を知ったのであろう。
だがここで僕の言うサッカー文化指数(CQ)の高さとは、そんなブラジル人選手を肯定するものではない。彼が謝ったら「謝らなくても良いからしっかり決めろ!」と言うだろう。
CQの高さとはサッカーの世界で言えば、その国のサッカー文化(サッカー哲学とも言うだろうか)を知り、結果へ繋げるということなのだと思う。
結果とは契約の延長をもらうだけではなく、センターフォワードで言えば決定的な仕事をする。謝るということを知り、彼が謝ってばかりではブラジルから来ている意味がないのだ。
選手は観光客になってはいけないのである。
僕のそういう日本人離れした厳しさはCQから来ているのであろう。これからのサッカー界、もっとこの3つの「Q」、IQ、EQ、CQの能力が必要になってくるであろう。
またいつの日か、CQをしっかり伝えられるように、より深く学んでおきたい。
2021年3月16日
三浦泰年
それは厳しいことを言うなら、今の日本は優秀なセンターフォワードが次から次へと育成されるほどサッカーの「CQ」が高くないということだ。
率直に言って、はっきりと物を言えない文化のもとでは、優秀なセンターフォワードは生まれないだろう。はっきり物が言えない人たち。顔が見えなければ物が言える。顔が見えなければ裸で人前に出られる。それが今の日本の文化だとしたら、良いセンターフォワードは育たない。
シュートを外すのが怖くてシュートを打たない。怒られるのが怖い? 外すのが恥ずかしい? 自分の責任にされるのが嫌だ?
これも日本の文化に由来する日本人選手の気質で、日本人選手の「CQ」なのであろうか? もしそうなら、センターフォワードや決定的な仕事ができる選手は育たない。イコール世界レベルのリーグで通用する選手は生まれない、となるだろう。
ブラジル人選手はシュートを外しても謝らない。何が悪いのかという顔をしている。その顔は「次は入れる(ゴールする)から」という顔だ。
日本の選手は謝る。僕であればパスミスをすれば軽く手で謝る癖があるであろう……。ブラジルの選手も日本が長くなり学び、謝る選手も増えた。日本の文化を知ったのであろう。
だがここで僕の言うサッカー文化指数(CQ)の高さとは、そんなブラジル人選手を肯定するものではない。彼が謝ったら「謝らなくても良いからしっかり決めろ!」と言うだろう。
CQの高さとはサッカーの世界で言えば、その国のサッカー文化(サッカー哲学とも言うだろうか)を知り、結果へ繋げるということなのだと思う。
結果とは契約の延長をもらうだけではなく、センターフォワードで言えば決定的な仕事をする。謝るということを知り、彼が謝ってばかりではブラジルから来ている意味がないのだ。
選手は観光客になってはいけないのである。
僕のそういう日本人離れした厳しさはCQから来ているのであろう。これからのサッカー界、もっとこの3つの「Q」、IQ、EQ、CQの能力が必要になってくるであろう。
またいつの日か、CQをしっかり伝えられるように、より深く学んでおきたい。
2021年3月16日
三浦泰年