【Jリーグ25周年】パトリック・エムボマ~“浪速の黒豹”の愛称はこうして生まれた

カテゴリ:Jリーグ

川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

2018年05月11日

「もしガンバに来ていなかったら、僕のキャリアは…」

現在は代理人業をメインにテレビ解説などもこなしている。日本で生を受けた息子のケンジ君はパリSGのアカデミーでプレー。(C)Getty Images

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 1997年シーズンにパトリックは25得点を挙げてJリーグ得点王に輝いた。
 
 いまは亡きヨジップ・クゼ監督のもとで、ガンバは典型的なリアクションサッカーを繰り広げ、ボールを奪えば長い球を蹴って黒豹にすべてを託す。「戦術=エムボマ」と揶揄されたものだが、弱小クラブが初めてシビれるような優勝争いを経験したのだ。若き宮本恒靖や實好礼忠、木場昌雄、松波正信らがその手応えを忘れず大事にし、やがて橋本英郎や二川孝広、大黒将志らアカデミー出身者たちを導き、のちの黄金期に繋げた。パトリックがいなければ、ずっと弱小のままだったかもしれない。まさに「神様 仏様 エムボマ様」なのである。
 
 パワフルで獰猛なハンターの印象が強いパトリックだが、圧倒的な技巧と高質なパスセンスも魅力だった。実際に半年間のみのプレーとなった2年目、彼はサイドに流れてマーカーを引き付けてチャンスを広げたり、中盤に下がってゲームを作るなど幅と奥行きのあるプレーを随所で披露。カメルーン代表では前線のみならず、トップ下やセントラルMFもこなしていたのだ。

 
 残念ながら当時のガンバには彼のポリバレントさを活かすタレントも戦術も整っていなかった。西野朗政権でガンバはポゼッションスタイルを突き詰めたが、あのチームにパトリックがいたらとんでもないゴール数をマークしていたかもしれない。と、そんな妄想を膨らませてみる。ちなみに全身がバネのようにしならせる動きが特徴的だったが、身体は尋常ではないほどカタかった。前屈運動などではいつも苦悶の表情を浮かべていたものだ。
 
 2008年、38歳になったパトリックはチャリティーマッチに出場するため、ふたたび日本の地を踏んだ。ミックスゾーンに現われるやいたずらっぽく足を引きずって見せ、「僕ももうトシだよ」と自嘲し、報道陣の笑いを誘う。
 
 そして、しみじみとこう語ったのだ。
 
「日本での思い出はかけがえのない、僕のとっての宝物。もしあのときガンバに来ていなかったら、僕のフットボールキャリアは終わっていたかもしれない。華やかなキャリアを送れたのは、日本サッカーの、日本のファンのおかげなんだ。心の底から感謝している」
 
 聞いているこちらが、泣きそうになった。
 
文●川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
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