キエーボかアーセナルかの二択。よく考えた末に決めました。
手に入れたメダルの色は銀だったが、彼らはあの大会を機に黄金世代と呼ばれるようになる。イナにとってナイジェリアでの3週間とは、ワールドユースとは、キャリアにおいてどんな位置づけなのだろうか。
「日本のサッカー界で見れば、素晴らしい成果やったんやと思います。ただ僕を含めてあのチームは、本気で優勝を狙ってた。世界一を目ざしてた。だから決勝で負けたのはホンマに悔しかったんです。それぞれが、それぞれのカテゴリーでつねに優勝するぞと思ってサッカーをしてましたから。僕個人としては、なんとか最終的に試合には出れたけど、このままじゃいけないって想いが強くなった大会。いろんなことを考えさせられた」
帰国した稲本の中で、猛烈な勢いで膨らんだのが、欧州挑戦への欲求だ。ワールドユース決勝で敗れたスペインのシャビとガブリは、これからもバルセロナで才能に磨きをかけていく。差はどんどん広がっていくだろう。海外に行くにはどうしたらいいか。危機感が、19歳のボランチを激しく突き動かしていた。
そして出会ったのが、当時のFIFA公認代理人である田邊伸明さんだった。両者は二人三脚で欧州への道筋を探り続け、着々とその距離を縮めていく。
迎えた2001年5月、まずはイタリアから正式オファーが舞い込む。セリエBで3位に食い込んで初のトップリーグ昇格を決めたばかりのキエーボ・ヴェローナ。監督はその後名声を高めるルイジ・デルネーリで、セリエAでイエロー旋風を巻き起こす直前のタイミングだ。
だが、日韓共催のコンフェデレーションズ・カップの直後、稲本は思いもよらない人物から誘いを受けることとなる。
「テレビの解説で来日してた(アーセン)ヴェンゲルさんが、僕のプレーを観て気に入ってくれた。アーセナルがオファーをくれたんです。キエーボかアーセナルかの二択。よく考えた末、ロンドンに行こうと決めました」
紆余曲折のストーリーが描かれる、プレミアリーグでの6年間の始まりだ。
<♯4に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※9月5日掲載予定の次回は、アーセナルから始まり、9年間に及んだ欧州での日々を回顧してもらいます。北ロンドンのスター軍団に加わったイナになにがあったのか。8月31日のガラタサライ移籍はどのようにして決まったのか。知られざるエピソード満載です。こうご期待!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで 1995-2017
───◆───◆───
PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年8月29日現在。
「日本のサッカー界で見れば、素晴らしい成果やったんやと思います。ただ僕を含めてあのチームは、本気で優勝を狙ってた。世界一を目ざしてた。だから決勝で負けたのはホンマに悔しかったんです。それぞれが、それぞれのカテゴリーでつねに優勝するぞと思ってサッカーをしてましたから。僕個人としては、なんとか最終的に試合には出れたけど、このままじゃいけないって想いが強くなった大会。いろんなことを考えさせられた」
帰国した稲本の中で、猛烈な勢いで膨らんだのが、欧州挑戦への欲求だ。ワールドユース決勝で敗れたスペインのシャビとガブリは、これからもバルセロナで才能に磨きをかけていく。差はどんどん広がっていくだろう。海外に行くにはどうしたらいいか。危機感が、19歳のボランチを激しく突き動かしていた。
そして出会ったのが、当時のFIFA公認代理人である田邊伸明さんだった。両者は二人三脚で欧州への道筋を探り続け、着々とその距離を縮めていく。
迎えた2001年5月、まずはイタリアから正式オファーが舞い込む。セリエBで3位に食い込んで初のトップリーグ昇格を決めたばかりのキエーボ・ヴェローナ。監督はその後名声を高めるルイジ・デルネーリで、セリエAでイエロー旋風を巻き起こす直前のタイミングだ。
だが、日韓共催のコンフェデレーションズ・カップの直後、稲本は思いもよらない人物から誘いを受けることとなる。
「テレビの解説で来日してた(アーセン)ヴェンゲルさんが、僕のプレーを観て気に入ってくれた。アーセナルがオファーをくれたんです。キエーボかアーセナルかの二択。よく考えた末、ロンドンに行こうと決めました」
紆余曲折のストーリーが描かれる、プレミアリーグでの6年間の始まりだ。
<♯4に続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
※9月5日掲載予定の次回は、アーセナルから始まり、9年間に及んだ欧州での日々を回顧してもらいます。北ロンドンのスター軍団に加わったイナになにがあったのか。8月31日のガラタサライ移籍はどのようにして決まったのか。知られざるエピソード満載です。こうご期待!
【稲本潤一PHOTO】語り継がれるべきキャリアを厳選フォトで 1995-2017
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PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181㌢・77㌔。O型。データはすべて2017年8月29日現在。