ドラフトで言えば6人中6位。補欠だよ。
とりわけ小笠原にとって、鹿島で同期の本山雅志と中田浩二は、スペシャルな存在であり続けた。
1998年、鹿島の新卒入団は、後にも先にもないスーパータレント6人衆だった。小笠原、本山、中田はもとより、ユースチームから昇格の曽ケ端、熊本の大津高校からきた天才肌のプレーメーカー・山口武士、そして、奈良育英高校の攻撃的な左サイドバック・中村祥朗という顔ぶれ。いずれも清雲栄純監督が率いるU-18日本代表の常連だった。
わたしは絶対に同意しないが、そこでも小笠原は「6番目だった」と主張する。
「ドラフトで言えば6人中6位。最後に決まったからね。豪華だったのはモトと中田なのであって、俺は注目選手でもなんでもない。補欠が獲れちゃったんだよ」
高校・ユース担当だったわたしは、当時の鹿島の名スカウトコンビと懇意にさせてもらっていた。平野勝哉さん、椎本邦一さんのふたりだ。
20年前のスカウト事情は、いまほど成熟していなかったかもしれない。ヤングタレントの潜在能力と伸びしろを見極め切れず、評判なり知名度、あるいは全国大会や世代別代表での経験を基本情報に、容易くプロの世界に導いていたクラブが少なくなかった。入団から1、2年で放出されるティーンネイジャーを何人も見ていた。
そんななか、鹿島は段違いの価値基準を持ち、高校生たちに個別の近未来設計を提示していたのだ。小笠原はこう証言する。
「正直、何チームかが声をかけてくれた。10番を用意して待ってるとか、レギュラーとして即戦力で迎えるとか、俺の中ではなんでそうなるのかなって不思議だった。でも、鹿島の平野さんと椎本さんだけは、はっきり言ってくれたんだよね。うちは来てもそう簡単じゃないよって。
ただ、きっとやりがいはある。数年かけてこのチームでレギュラーを獲れれば、間違いなく代表にもつながる。それだけのチームで、可能性があるから声をかけたんだって。そこにグッと来たわけ。そういうチームでやりたいって思った」
1998年、鹿島の新卒入団は、後にも先にもないスーパータレント6人衆だった。小笠原、本山、中田はもとより、ユースチームから昇格の曽ケ端、熊本の大津高校からきた天才肌のプレーメーカー・山口武士、そして、奈良育英高校の攻撃的な左サイドバック・中村祥朗という顔ぶれ。いずれも清雲栄純監督が率いるU-18日本代表の常連だった。
わたしは絶対に同意しないが、そこでも小笠原は「6番目だった」と主張する。
「ドラフトで言えば6人中6位。最後に決まったからね。豪華だったのはモトと中田なのであって、俺は注目選手でもなんでもない。補欠が獲れちゃったんだよ」
高校・ユース担当だったわたしは、当時の鹿島の名スカウトコンビと懇意にさせてもらっていた。平野勝哉さん、椎本邦一さんのふたりだ。
20年前のスカウト事情は、いまほど成熟していなかったかもしれない。ヤングタレントの潜在能力と伸びしろを見極め切れず、評判なり知名度、あるいは全国大会や世代別代表での経験を基本情報に、容易くプロの世界に導いていたクラブが少なくなかった。入団から1、2年で放出されるティーンネイジャーを何人も見ていた。
そんななか、鹿島は段違いの価値基準を持ち、高校生たちに個別の近未来設計を提示していたのだ。小笠原はこう証言する。
「正直、何チームかが声をかけてくれた。10番を用意して待ってるとか、レギュラーとして即戦力で迎えるとか、俺の中ではなんでそうなるのかなって不思議だった。でも、鹿島の平野さんと椎本さんだけは、はっきり言ってくれたんだよね。うちは来てもそう簡単じゃないよって。
ただ、きっとやりがいはある。数年かけてこのチームでレギュラーを獲れれば、間違いなく代表にもつながる。それだけのチームで、可能性があるから声をかけたんだって。そこにグッと来たわけ。そういうチームでやりたいって思った」