サッカーに没頭できる環境は、恐ろしいくらいに整っていた。
そんなこともあった小5の頃、町を二分するほどのライバル関係にあった桜州と桜峰は、合併を果たして名を桜島少年団に変えた。
そしてその先にあるのは、町内で唯一の中学校だった桜島中。ただでさえタレント揃いで無敵を誇っていた“桜島ユナイテッド”は、小学校レベルでの合併を経て、さらにチーム力が強固になっていた。桜州少年団の藤崎監督は以降、桜島中のコーチとなり、現在に至っている。
「三兄弟がすくすく育ったのは、ご両親のおかげ。サッカー、スポーツに対する理解があってこそだし、その愛情は他の町の子どもたちにも分け隔てなく注がれました。役所に勤められていたお父さん(武義)には当時、役所のマイクロバスを活用してもらい、子どもたちの遠征などに協力していただき、いつでも温かい眼で見守ってくれました。そういった熱い思いは、桜島の人びとみんなに共通している。私は子どもたちにそうとう厳しく接しましたが、いつも理解を示してもらった。少年団からは何人ものJリーガーが育っていますが、それも、この桜島の風土があってこそ。これからも伝統として残っていくものだと思います。どうしようもなく負けず嫌いなところも含めてですが(笑)」
少年団は、月謝などを一切徴収しなかった。指導者ももちろん無償のボランティアで、何年かに一度新調するユニフォームの資金は、町の家々が薩摩焼酎のビンなどを差し出して現金に換え、協力し合って捻出してきた。前述の溶岩グラウンド然り、である。
人口4000人強の小さな町から続々と輩出された名手たち。遠藤三兄弟の華麗なるストーリーも、決して偶然ではなく、必然から生まれたものだということが分かる。サッカー小僧たちが没頭できる環境は、恐ろしいくらいに整っていたのだ。
<後編へ続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェスト)
そしてその先にあるのは、町内で唯一の中学校だった桜島中。ただでさえタレント揃いで無敵を誇っていた“桜島ユナイテッド”は、小学校レベルでの合併を経て、さらにチーム力が強固になっていた。桜州少年団の藤崎監督は以降、桜島中のコーチとなり、現在に至っている。
「三兄弟がすくすく育ったのは、ご両親のおかげ。サッカー、スポーツに対する理解があってこそだし、その愛情は他の町の子どもたちにも分け隔てなく注がれました。役所に勤められていたお父さん(武義)には当時、役所のマイクロバスを活用してもらい、子どもたちの遠征などに協力していただき、いつでも温かい眼で見守ってくれました。そういった熱い思いは、桜島の人びとみんなに共通している。私は子どもたちにそうとう厳しく接しましたが、いつも理解を示してもらった。少年団からは何人ものJリーガーが育っていますが、それも、この桜島の風土があってこそ。これからも伝統として残っていくものだと思います。どうしようもなく負けず嫌いなところも含めてですが(笑)」
少年団は、月謝などを一切徴収しなかった。指導者ももちろん無償のボランティアで、何年かに一度新調するユニフォームの資金は、町の家々が薩摩焼酎のビンなどを差し出して現金に換え、協力し合って捻出してきた。前述の溶岩グラウンド然り、である。
人口4000人強の小さな町から続々と輩出された名手たち。遠藤三兄弟の華麗なるストーリーも、決して偶然ではなく、必然から生まれたものだということが分かる。サッカー小僧たちが没頭できる環境は、恐ろしいくらいに整っていたのだ。
<後編へ続く>
取材・文:川原崇(サッカーダイジェスト)