前線は完全に駒不足で、本田にチャンスが回ってくる可能性がある。
まあしかし、起こってしまったことを嘆いてばかりいても仕方がないだろう。いま考えるべきことは、今後どうなるかということだ。
スソは次節のジェノア戦(3月19日のセリエA29節)での戦列復帰は難しいと見られている。その後はAマッチウィークで休みに入るが、現時点でカムバックの見通しは明らかにされていない。
モンテッラの構想の中でスソは、ヒエラルキー最上位の選手だった。そのスペイン人アタッカーを欠くのだから、チームにとって大きな痛手だ。代役候補の一番手であるオカンポスはここまで好パフォーマンスを見せているとは言い難く、さらにユベントス戦の終盤のPK判定に不満を抱いて審判に暴言を吐いたバッカも、数試合の出場停止が濃厚となっている。
前線は完全に駒不足で、そうなると本田にチャンスが回ってくる可能性は大いにある。本田自身の怪我は、幸いそれほど時間がかからずに完治しそうだ。これまで私は、本田が出番を得るのは難しいと何度も書いてきた。しかし、スソとバッカの離脱で明らかに状況が変化した。間違いなく「希望の光」が差し込んでいるのだ。
ユベントス戦後の会見でモンテッラは、本田の怪我の容態も、箇所もあまり知らないような受け答えをし、「監督の頭の中からは本田は本当に消えてしまっているのではないか?」という声も挙がっているようだ。
しかし、これは気にしなくていい。モンテッラは本田のみならず、誰の怪我に対してもこのような知らぬ存ぜぬな態度を取るのだ。モンテッラがそうやって選手個々のフィジカルコンディションを曖昧にはぐらかすのを、番記者の我々は何度も目にしてきている。
怪我の状況も、どれくらいで復帰できるかも、モンテッラは決して明言しない。レギュラーの選手であっても、控えの選手であっても同じだ。
しかし、これは無関心だからそうしているのではない。怪我は選手にとって非常にデリケートな問題だ。自身も超一流のカルチャトーレ(フットボーラー)だったモンテッラは、そのことをよく分かっている。選手のプライバシーを守ると同時に、落ち着いてリハビリに専念できるようにという、彼なりの配慮なのである。
文:マルコ・パソット(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)
翻訳:利根川晶子
【著者プロフィール】
Marco PASOTTO(マルコ・パソット)/1972年2月20日、トリノ生まれ。95年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙で執筆活動を始める。2002年から8年間ウディネーゼを追い、10年より番記者としてミランに密着。ミランとともにある人生を送っている。
スソは次節のジェノア戦(3月19日のセリエA29節)での戦列復帰は難しいと見られている。その後はAマッチウィークで休みに入るが、現時点でカムバックの見通しは明らかにされていない。
モンテッラの構想の中でスソは、ヒエラルキー最上位の選手だった。そのスペイン人アタッカーを欠くのだから、チームにとって大きな痛手だ。代役候補の一番手であるオカンポスはここまで好パフォーマンスを見せているとは言い難く、さらにユベントス戦の終盤のPK判定に不満を抱いて審判に暴言を吐いたバッカも、数試合の出場停止が濃厚となっている。
前線は完全に駒不足で、そうなると本田にチャンスが回ってくる可能性は大いにある。本田自身の怪我は、幸いそれほど時間がかからずに完治しそうだ。これまで私は、本田が出番を得るのは難しいと何度も書いてきた。しかし、スソとバッカの離脱で明らかに状況が変化した。間違いなく「希望の光」が差し込んでいるのだ。
ユベントス戦後の会見でモンテッラは、本田の怪我の容態も、箇所もあまり知らないような受け答えをし、「監督の頭の中からは本田は本当に消えてしまっているのではないか?」という声も挙がっているようだ。
しかし、これは気にしなくていい。モンテッラは本田のみならず、誰の怪我に対してもこのような知らぬ存ぜぬな態度を取るのだ。モンテッラがそうやって選手個々のフィジカルコンディションを曖昧にはぐらかすのを、番記者の我々は何度も目にしてきている。
怪我の状況も、どれくらいで復帰できるかも、モンテッラは決して明言しない。レギュラーの選手であっても、控えの選手であっても同じだ。
しかし、これは無関心だからそうしているのではない。怪我は選手にとって非常にデリケートな問題だ。自身も超一流のカルチャトーレ(フットボーラー)だったモンテッラは、そのことをよく分かっている。選手のプライバシーを守ると同時に、落ち着いてリハビリに専念できるようにという、彼なりの配慮なのである。
文:マルコ・パソット(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)
翻訳:利根川晶子
【著者プロフィール】
Marco PASOTTO(マルコ・パソット)/1972年2月20日、トリノ生まれ。95年から『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙で執筆活動を始める。2002年から8年間ウディネーゼを追い、10年より番記者としてミランに密着。ミランとともにある人生を送っている。