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商工会議所の職員が切り開く新たな道。勇気を振り絞った可能性への挑戦の記録【日本サッカー・マイノリティリポート】

カテゴリ:連載・コラム

手嶋真彦

2024年07月26日

1年間で得られた貴重な財産。過小評価すべきでないのは?

1年間切磋琢磨し、チームで助け合い、12人全員揃って3月の修了式に。間野ゼミの繋がりは松尾(後列左から4人目)の大きな財産だ。写真提供:松尾康宏

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 論文の森を抜け出したのは、8月に入ってからだった。研究テーマを「育成年代のスポーツ合宿地の選考における意思決定プロセスと選定要素に関する研究」へと変更したのは、例の3つの意義が重なり合っていたからだ。

 金沢市内の実家から車で1時間ほどの同じ石川県内という、松尾にとっては思い入れの強い地元で研究テーマの大きな成功例が実現されており、先行研究はなく、成功の決め手をモデル化できれば、スポーツ合宿の誘致を見据える全国の自治体が地域振興のヒントにできる。小中学生のスポーツ合宿誘致による地域振興の成功事例が増えれば、国が推進しているスポーツの成長産業化にも繋がっていくはずだ。

 10月末には能登半島の現地を訪れ、関係者に話を聞き、スポーツ合宿地を選ぶ側の取材も進め、実家に帰省する年末年始に論文の仕上げを捗(はかど)らせるつもりにしていた。

 不測の事態が起きたのは2024年1月1日。松尾にとっては、生まれて初めて体験する大きな揺れだった。ありがたいことに実家のライフラインはすべて維持されており、TVの報道番組も流しっぱなしになっていた。

 ニュース映像で被災の深刻さがわかってくると、松尾は言葉を失い、打ちひしがれた。これだけ甚大な被害に見舞われて、スポーツ合宿で大成功を収めてきた和倉温泉や七尾市は、どうなってしまうのか。能登の人たちと比べれば、自分ははるかに軽微な被害しか受けていないとわかっていながら、それでも論文に向き合おうという気持ちは、無念や無力といった黒い渦に飲み込まれていく。
 
 そんなある日のことだった。TVのニュース番組で、壊滅的な被害を受けた和倉温泉の旅館の女将(おかみ)がマイクを向けられていた。無遠慮にしか聞こえないインタビュアーの質問にため息をつきながら耳を傾けていた松尾は、ハッとした。あれだけ深刻な被害の当事者となっている女将が、次のような話をしていたからだ。

「和倉は今このような状況ですが、3月には北陸新幹線が延伸して加賀温泉郷も通ります。ですが風評被害で、地震の被害がほとんどない温泉旅館もキャンセルが増えているようですので、心配しています」

 松尾の脳裏には、自分の学術研究に快く協力してくれた能登の人々の生き生きとした笑顔が浮かんでいた。この論文は絶対に書き上げなければならないと、松尾は跳ね起きるかのようにして、1月12日の提出期限に間に合わせる。感謝の気持ちを胸に、どれだけ微力であろうとも、能登半島地震の震災復興へ、これからの自分に何ができるのか、松尾は模索していこうと決めている。

 2024年3月、松尾を含めた同期12名は、全員揃って、修了式のその日を迎えられた。終わりは始まりだ。ここからは、それぞれがそれぞれの道を歩んでいくことになる。松尾は東京商工会議所の仕事に精を出す前提で、早稲田大学スポーツビジネス研究所の招聘研究員として登録し、学術的な研究を続けていくという。

 まずは修士論文に手を加え、学会誌への掲載を目指し、いずれは「育成年代を対象にした民間クラブチームと地域企業のパートナーシップの在り方について」という当初の研究テーマにも再挑戦してみたいと、道筋を描いているそうだ。

 取材中、松尾に聞いてみた。なぜ、紹介してくれたのですか、と。今回で52回目の当連載は、実を言えば他でもない松尾が、第42回「全国シニアサッカー“裏”選手権」の中村篤次郎(あつお)、第43回「サッカー合宿・大会トータルサポート」の吉田泰(たい)、第44回「FC千代田」の中村圭伸(よしのぶ)という3人と、筆者を引き合わせてくれている。

 もちろん商工会議所の職員と相談者としての関係からではなく、フットボールという共通言語を持つ者同士のよしみからだ。質問に対する松尾の返答はこうだった。

「ある種の閃(ひらめ)きなのか、この人をこの人に紹介すると、面白いことになりそうだと、ポン、ポン、ポンと頭に出てくるほうだと、どこかで自負しています。そのポン、ポン、ポンの可能性が、大学院の1年ですごく広がったのではないかと思います」

 早稲田大学で広がったのは、ゼミの同期12人のネットワークだけではない。恩師となった間野義之(2024年3月までで早稲田大学スポーツ科学学術院教授を退官/現在は、びわこ成蹊スポーツ大学副学長で7月1日からの学長就任が決まっている)の名を冠する「間野ゼミ」のOBOGは、その数500人以上という規模なのだ。スポーツ界にとどまらずビジネスの世界でも錚々(そうそう)たる名前がずらりと並ぶそのOBOG名簿も、松尾が得た貴重な財産となっていくだろう。

 人のために、人と人とをうまく結びつけられる価値。貴重な架け橋となる人物の価値を過小評価すべきではない。間野ゼミの同期たちと同様に、松尾の前にも無限の可能性が広がっている。(文中敬称略)

取材・文●手嶋真彦(スポーツライター)

※サッカーダイジェスト2024年7月号から転載

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