自らが閉ざしたワールドカップへの扉。
「世界へ出ていく。ここにいては見ることのできない風景を見たいから」
気持ちに変わりはないが、現実の厳しさも冷静に感じていた。2年後にはドイツ・ワールドカップが控えている。自らが敬愛の念を抱く、子どもの頃からのスター選手たちを乗り越えるなんて、考えることもなかった。U-23とはいえ、日の丸を背負い、その重さを知っているからこそ、その上のステージへ行くには、まだまだ自分は非力だと考えていた。
アテネ五輪開幕前の時期、浦和は英国マンチェスターで、アルゼンチンのボカ・ジュニオールと、マンチェスター・ユナイテッドとの親善大会を予定していた。
連戦だったこともあり、初戦と2戦目のメンバーが大きく変わり、鈴木はマンチェスター・Uとの第2戦に出場する予定だった。ボカに完敗し、「自分の甘さを痛感した」と海外移籍の決意を固めたのは長谷部誠だった。
きっと、鈴木にとってもマンチェスター・U戦は大きな刺激を得る試合になるはずで、本人も楽しみにしていた。しかし、試合当日の悪天候を理由にマンチェスター・U対浦和の試合はキャンセルになった。
ついていない。
鈴木はそう思うことで、不運を忘れようとした。アテネのこともマンチェスターの豪雨に流された。
2006年初夏。鈴木のもとにディナモ・キエフから獲得のオファーが届く。この機会を逃したくないと考えた鈴木は、当時の犬飼社長との会談した。
「啓太はまだ、浦和でJリーグのチャンピオンになってない。それからでも遅くないだろう」という犬飼氏の言葉に、移籍願望を翻意する。そしてその年、浦和はJリーグ王者に輝いた。
チームへの手ごたえ、自信に満ちた鈴木は、このチームでアジア王者を目指すことに決め、再度あったオファーも断っている。そして、もうひとつ日本でやらねばならないことがあった。
ワールドカップ・ドイツ大会終了後、代表監督に就任したイビチャ・オシムから日本代表に招集されたのだ。国内にいる選手の力を底上げするために、海外でプレーする選手の招集なしに、チーム作りに着手する指揮官。東欧の名門で挑戦するのではなく、日本ナンバー1クラブの一員としてのチャレンジを選らんだ。
しかし、指揮官が病に倒れ、オシム・ジャパンは2007年10月17日の試合がラストマッチとなった。同年9月のオーストリア遠征で、スイス代表と戦い、世界トップレベルを体感した直後の悲報でもあった。
オシムが率いた20試合、鈴木はすべてに出場していた。監督からの絶大なる信頼、期待を背負ってきた。恩師とともにした志を繋ぐ者として、岡田武史新監督のチームで、新たな生存競争に向かった。
2007年はACL優勝も果たし、クラブワールドカップにも出場。強豪故の過密日程を駆け抜けた。
翌2008年4月下旬、鈴木は倒れる。口内炎が数多く発症し、食事もとれず、熱も下がらない。1週間入院し、体重は10キロ以上も落ちた。考えてみると、年が明けてから、代表戦7試合、リーグ戦5試合と14試合に出場していた。2007年シーズンから積み重なった過労が原因と片づけることができないほど大きなショックを、この時に受けたと話す。
「すぐに命に直結するようなことはなかったけれど、それでも一生懸命サッカーをやってきた結果、こんなことになるのか?」
漠然とそんな想いを抱き、少し怖くなった。練習に復帰しても試合には出場できていなかったが、5月末からの代表の活動には「参加できます」と直訴した。代表を辞退するなんて、できるわけはない。
国内で2試合の親善試合、オマーンとの予選を経て、オマーン、タイと続く3週間あまりの遠征だ。けれど、代表チームの一員になったというのに、サッカーへの情熱が湧いてこない。練習へも行きたくない。バーンアウト、ある種の鬱状態に陥っていたのだろう。
運動量という他人にない武器を支えていたのは、鈴木のメンタルの強さだ。代表へのリスペクト、その一員として、特別な義務感や自覚が無ければ戦えないし、生存競争にも勝てはしない。底辺からコツコツの登り続けてきた男だからこそ、誰もよりもそれを理解していたはず。
だというのに、自分の生きるエンジンをまわす、エネルギーが一滴も残っていなかった。「自分自身を責めた。何をやっているんだ、代表に来ているというのに」。そんな想いが拍車をかけてしまったのかもしれない。
「明日こそきっと」そう願い床につく。朝の光が教えてくれるのは「今日もダメだ」ということだった。8月に一度親善試合に招集されたが、以降は2度と呼ばれることはなかった。それに落胆する余裕も当時の鈴木にはなかった。
南アフリカへ向かうバスは鈴木を乗せずに走り出した。未練はない。代表を語る状況ではなく、立場でもなかったのだ。
気持ちに変わりはないが、現実の厳しさも冷静に感じていた。2年後にはドイツ・ワールドカップが控えている。自らが敬愛の念を抱く、子どもの頃からのスター選手たちを乗り越えるなんて、考えることもなかった。U-23とはいえ、日の丸を背負い、その重さを知っているからこそ、その上のステージへ行くには、まだまだ自分は非力だと考えていた。
アテネ五輪開幕前の時期、浦和は英国マンチェスターで、アルゼンチンのボカ・ジュニオールと、マンチェスター・ユナイテッドとの親善大会を予定していた。
連戦だったこともあり、初戦と2戦目のメンバーが大きく変わり、鈴木はマンチェスター・Uとの第2戦に出場する予定だった。ボカに完敗し、「自分の甘さを痛感した」と海外移籍の決意を固めたのは長谷部誠だった。
きっと、鈴木にとってもマンチェスター・U戦は大きな刺激を得る試合になるはずで、本人も楽しみにしていた。しかし、試合当日の悪天候を理由にマンチェスター・U対浦和の試合はキャンセルになった。
ついていない。
鈴木はそう思うことで、不運を忘れようとした。アテネのこともマンチェスターの豪雨に流された。
2006年初夏。鈴木のもとにディナモ・キエフから獲得のオファーが届く。この機会を逃したくないと考えた鈴木は、当時の犬飼社長との会談した。
「啓太はまだ、浦和でJリーグのチャンピオンになってない。それからでも遅くないだろう」という犬飼氏の言葉に、移籍願望を翻意する。そしてその年、浦和はJリーグ王者に輝いた。
チームへの手ごたえ、自信に満ちた鈴木は、このチームでアジア王者を目指すことに決め、再度あったオファーも断っている。そして、もうひとつ日本でやらねばならないことがあった。
ワールドカップ・ドイツ大会終了後、代表監督に就任したイビチャ・オシムから日本代表に招集されたのだ。国内にいる選手の力を底上げするために、海外でプレーする選手の招集なしに、チーム作りに着手する指揮官。東欧の名門で挑戦するのではなく、日本ナンバー1クラブの一員としてのチャレンジを選らんだ。
しかし、指揮官が病に倒れ、オシム・ジャパンは2007年10月17日の試合がラストマッチとなった。同年9月のオーストリア遠征で、スイス代表と戦い、世界トップレベルを体感した直後の悲報でもあった。
オシムが率いた20試合、鈴木はすべてに出場していた。監督からの絶大なる信頼、期待を背負ってきた。恩師とともにした志を繋ぐ者として、岡田武史新監督のチームで、新たな生存競争に向かった。
2007年はACL優勝も果たし、クラブワールドカップにも出場。強豪故の過密日程を駆け抜けた。
翌2008年4月下旬、鈴木は倒れる。口内炎が数多く発症し、食事もとれず、熱も下がらない。1週間入院し、体重は10キロ以上も落ちた。考えてみると、年が明けてから、代表戦7試合、リーグ戦5試合と14試合に出場していた。2007年シーズンから積み重なった過労が原因と片づけることができないほど大きなショックを、この時に受けたと話す。
「すぐに命に直結するようなことはなかったけれど、それでも一生懸命サッカーをやってきた結果、こんなことになるのか?」
漠然とそんな想いを抱き、少し怖くなった。練習に復帰しても試合には出場できていなかったが、5月末からの代表の活動には「参加できます」と直訴した。代表を辞退するなんて、できるわけはない。
国内で2試合の親善試合、オマーンとの予選を経て、オマーン、タイと続く3週間あまりの遠征だ。けれど、代表チームの一員になったというのに、サッカーへの情熱が湧いてこない。練習へも行きたくない。バーンアウト、ある種の鬱状態に陥っていたのだろう。
運動量という他人にない武器を支えていたのは、鈴木のメンタルの強さだ。代表へのリスペクト、その一員として、特別な義務感や自覚が無ければ戦えないし、生存競争にも勝てはしない。底辺からコツコツの登り続けてきた男だからこそ、誰もよりもそれを理解していたはず。
だというのに、自分の生きるエンジンをまわす、エネルギーが一滴も残っていなかった。「自分自身を責めた。何をやっているんだ、代表に来ているというのに」。そんな想いが拍車をかけてしまったのかもしれない。
「明日こそきっと」そう願い床につく。朝の光が教えてくれるのは「今日もダメだ」ということだった。8月に一度親善試合に招集されたが、以降は2度と呼ばれることはなかった。それに落胆する余裕も当時の鈴木にはなかった。
南アフリカへ向かうバスは鈴木を乗せずに走り出した。未練はない。代表を語る状況ではなく、立場でもなかったのだ。