日本の若手が続々と欧州クラブのU-23/U-19チームへ。18歳でオランダ移籍のAZ菅原由勢はこの傾向をどう考える?「J1で活躍できるのなら良いけど…」【現地発】
カテゴリ:海外日本人
2023年02月20日
「1日24時間ストレスがありました」
菅原の場合、名古屋からの期限付き移籍という形でAZに入団した。18歳の若手に対し、周囲は「まだ若いから思い切ってやれよ」と声をかけたかもしれないが、選手本人とすれば「結果を出さないと退団しないといけない」というストレスやプレッシャーがあったはずだ。
「はい。プレッシャーとストレスを毎日感じました。オフがあっても休んでなんかいられないという気持ちで、日々の練習、練習試合ですら死ぬ気で戦わないといけない。『活躍したら買い取ってもらえるかなあ』という思いが常に頭の中にこびりついてました。『自分はこの地で生きていくんだ。ここで人生をかけるんだ』という強い思いを持ち続けた結果、移籍して半年後に完全移籍することができました。
12月に『買い取るしか選択肢はない』と口頭で言われましたが、契約書にサインするまでヨーロッパではわからない。その間、僕は半年以上かかる怪我をしたら『待て』となるでしょう。だから2月に契約書をかわすまで1日24時間ストレスがありました」
「はい。プレッシャーとストレスを毎日感じました。オフがあっても休んでなんかいられないという気持ちで、日々の練習、練習試合ですら死ぬ気で戦わないといけない。『活躍したら買い取ってもらえるかなあ』という思いが常に頭の中にこびりついてました。『自分はこの地で生きていくんだ。ここで人生をかけるんだ』という強い思いを持ち続けた結果、移籍して半年後に完全移籍することができました。
12月に『買い取るしか選択肢はない』と口頭で言われましたが、契約書にサインするまでヨーロッパではわからない。その間、僕は半年以上かかる怪我をしたら『待て』となるでしょう。だから2月に契約書をかわすまで1日24時間ストレスがありました」
何度も菅原が繰り返したのが「覚悟」という2文字だ。
「中学1年で名古屋グランパスの育成に入った瞬間から『この道で生きていくんだ』という覚悟を心に決めて毎日いろんな選択をしてきた。当然、犠牲にしたこともありました。友だちと遊びに行ったら楽しい。だけど後に『こんなことをしていていいのかなあ』という気持ちになってしまうんです。考えてみれば、友だちとは学校で遊ぶことができる。だから、その日の授業が終わった瞬間、僕は『サッカーモード』に切り替えるようになりました。
また、僕がサッカーをするために家族がすごく時間を割いていることも感じていました。父は毎日仕事を頑張り、母は子供3人の世話していたのを身近で見てました。僕の送り迎えも含めて自分には分からなかったストレスがあったはずです。『僕だけの人生ではない。自分の足の覚悟によって家族が決まる』という気持ちが自然と芽生えました。それが僕をここに連れてきた原動力です。
『このチームで俺が一番覚悟を決めてサッカーをしている』と自信を持ってやってきましたし、今でもその覚悟を忘れてはいけないと思ってます。サッカーに対する覚悟を決めるというのは(語気を強めて)本当に大事だと思います。覚悟を言葉にしたら『ああ、そうか』と思うかもしれませんが、考えてみると意外と深いんです」
アウェーの試合直後だけに、話を聞く時間は限られていた。チームバスを待たせるわけにはいかない。それでも、菅原の22年間が濃縮された10分余りの会話だった。
取材・文●中田徹
「中学1年で名古屋グランパスの育成に入った瞬間から『この道で生きていくんだ』という覚悟を心に決めて毎日いろんな選択をしてきた。当然、犠牲にしたこともありました。友だちと遊びに行ったら楽しい。だけど後に『こんなことをしていていいのかなあ』という気持ちになってしまうんです。考えてみれば、友だちとは学校で遊ぶことができる。だから、その日の授業が終わった瞬間、僕は『サッカーモード』に切り替えるようになりました。
また、僕がサッカーをするために家族がすごく時間を割いていることも感じていました。父は毎日仕事を頑張り、母は子供3人の世話していたのを身近で見てました。僕の送り迎えも含めて自分には分からなかったストレスがあったはずです。『僕だけの人生ではない。自分の足の覚悟によって家族が決まる』という気持ちが自然と芽生えました。それが僕をここに連れてきた原動力です。
『このチームで俺が一番覚悟を決めてサッカーをしている』と自信を持ってやってきましたし、今でもその覚悟を忘れてはいけないと思ってます。サッカーに対する覚悟を決めるというのは(語気を強めて)本当に大事だと思います。覚悟を言葉にしたら『ああ、そうか』と思うかもしれませんが、考えてみると意外と深いんです」
アウェーの試合直後だけに、話を聞く時間は限られていた。チームバスを待たせるわけにはいかない。それでも、菅原の22年間が濃縮された10分余りの会話だった。
取材・文●中田徹