「タケは私が憧れたナカタを彷彿させる」ソシエダのレジェンドは久保建英と日本代表をどう見ている?「スペインは油断していると危ない」【インタビュー】
カテゴリ:日本代表
2022年12月01日
「イ・チョンスは才能はあったよ。でも…」
――日本を訪れた経験は?
「いいや、韓国やソウルに訪れたことはある。日韓ワールドカップでね。スペインは日本で試合をする機会に恵まれなかった。そうそう、日本が世界で最も雪が多い国というのは本当なのかい。今度タケに聞いてみてよ。世界一美味しい焼き牡蠣が食べられる街もあるそうじゃない。すごいよね。私はラーメンが大好物で、たまに家でも作っている。これが美味しいんだ」
――日韓ワールドカップの思い出は? あなたはスペイン代表でMVP級の働きを見せたと高い評価を受けました。
「この私がだよ。自分から口にすると聞こえは良くないけど、私だったんだ。4アシストを記録し、理想のイレブンにも選出された。でもスペインはアンラッキー以外の何物でもなかった。勝利を奪われた。優勝の機運が高まっていたのにね。強奪さ。しかも世界中の人々がその現場を目撃した」
「いいや、韓国やソウルに訪れたことはある。日韓ワールドカップでね。スペインは日本で試合をする機会に恵まれなかった。そうそう、日本が世界で最も雪が多い国というのは本当なのかい。今度タケに聞いてみてよ。世界一美味しい焼き牡蠣が食べられる街もあるそうじゃない。すごいよね。私はラーメンが大好物で、たまに家でも作っている。これが美味しいんだ」
――日韓ワールドカップの思い出は? あなたはスペイン代表でMVP級の働きを見せたと高い評価を受けました。
「この私がだよ。自分から口にすると聞こえは良くないけど、私だったんだ。4アシストを記録し、理想のイレブンにも選出された。でもスペインはアンラッキー以外の何物でもなかった。勝利を奪われた。優勝の機運が高まっていたのにね。強奪さ。しかも世界中の人々がその現場を目撃した」
――レイノー・ドゥヌエの時代には、もう少しのところでラ・リーガ優勝を逃しました。当時のソシエダはどんな特徴を持ったチームでしたか?
「目をつぶっていても、プレーできるくらいのレベルにあったよ。とにかく勝利への熱量がすごかった。味方の選手がタックルを受けると、6人の選手が主審を囲い込んで、ファウルを獲得したもんだ。1試合1試合、チーム一丸となって全力で戦っていた。0-2のビハインドから立て続けに4点を奪い、逆転勝利を収めた試合もあった。私たち自身も、現実のこととは思えないこともあった。ホペイロから控え選手まで、もう一つの家族といってよかった。結束力や一体感が強くて、本当の家族のようだった」
――かつてソシエダでプレーした韓国代表イ・チョンスはチーム溶け込んでいましたか?あなたは最も仲が良かった選手の1人でしたよね?
「私はチームメイトとふざけ合うだけでなく、面倒を見るのも好きだった。才能はあったよ。でもチャンスを掴めないまま終わった。彼の得意なところで起用されないというポジションの問題もあった。適性ポジションはトップ下で、裏抜けの技術も高かった。ただ当時のソシエダにはダルコ(コバチェビッチ)とニハトがいた。若くて度胸も才能も合って、左右両足から鋭いシュートを放つこともできた。でも運がなかった。
当時のチームにはホセバ・ジョレンテ(後にバジャドリーやビジャレアルなどで活躍)もいた。彼もスペクタクルな選手だったけど、出番は限られていた。若い選手がポジション争いに割り込むには困難なチームだった。それが才能あったにもかかわらず、ソシエダで出場機会に恵まれなかった一番の理由だろう」
――いま何をしていますか?
「私はコーチだ。いろいろ活動しているよ。あるイタリアのクラブから対戦相手を分析するスカウティングのような仕事のオファーを受けている。今、交渉を行っているところで、条件面で折り合いがつけば、すぐに移り住む予定だ。過去に訪れたこともある。とてもいいところだ」
インタビュアー・文●ミケル・レカルデ(ノティシアス・デ・ギプスコア)
翻訳●下村正幸
「目をつぶっていても、プレーできるくらいのレベルにあったよ。とにかく勝利への熱量がすごかった。味方の選手がタックルを受けると、6人の選手が主審を囲い込んで、ファウルを獲得したもんだ。1試合1試合、チーム一丸となって全力で戦っていた。0-2のビハインドから立て続けに4点を奪い、逆転勝利を収めた試合もあった。私たち自身も、現実のこととは思えないこともあった。ホペイロから控え選手まで、もう一つの家族といってよかった。結束力や一体感が強くて、本当の家族のようだった」
――かつてソシエダでプレーした韓国代表イ・チョンスはチーム溶け込んでいましたか?あなたは最も仲が良かった選手の1人でしたよね?
「私はチームメイトとふざけ合うだけでなく、面倒を見るのも好きだった。才能はあったよ。でもチャンスを掴めないまま終わった。彼の得意なところで起用されないというポジションの問題もあった。適性ポジションはトップ下で、裏抜けの技術も高かった。ただ当時のソシエダにはダルコ(コバチェビッチ)とニハトがいた。若くて度胸も才能も合って、左右両足から鋭いシュートを放つこともできた。でも運がなかった。
当時のチームにはホセバ・ジョレンテ(後にバジャドリーやビジャレアルなどで活躍)もいた。彼もスペクタクルな選手だったけど、出番は限られていた。若い選手がポジション争いに割り込むには困難なチームだった。それが才能あったにもかかわらず、ソシエダで出場機会に恵まれなかった一番の理由だろう」
――いま何をしていますか?
「私はコーチだ。いろいろ活動しているよ。あるイタリアのクラブから対戦相手を分析するスカウティングのような仕事のオファーを受けている。今、交渉を行っているところで、条件面で折り合いがつけば、すぐに移り住む予定だ。過去に訪れたこともある。とてもいいところだ」
インタビュアー・文●ミケル・レカルデ(ノティシアス・デ・ギプスコア)
翻訳●下村正幸