「普通の事をちゃんとやる」ということなしに非凡な成果は掴めない
子育てもサッカーの育成も同じだ。どんな躾をするか?
例えば、「普通」とは何かと問われても、「普通」の何たるかを教えなければ子どもは分からない。
子どもは4~5歳くらいで友達との関係を知り、自分でやれることが増えてくる。サッカーでも個性、自分自身が芽生えてくる。
その時に、コーチが子ども(選手)に何を伝えるか? 親が何を言うか? 先生が何を教えるか? これが非常に大事になる。
そこで間違ってはいけない。子どもを育てるのに、甘すぎても厳しすぎてもいけない。
親が子供に甘くて、先生が厳しいという時代ではなく、誰もが必死で若者を育てるという意識が大事なのであろう。
昔は躾がなっていない親は注意され、「子どもを鍛えて下さい」と指導者は頼まれた。
自分の子どもに甘く、周りにも鍛えてもらわない――。そんな未来の大人はどうなるのであろうか?
しかしこの「普通」も時代により変わっているということを、しっかり理解していくことが大事である。
例えば、「普通」とは何かと問われても、「普通」の何たるかを教えなければ子どもは分からない。
子どもは4~5歳くらいで友達との関係を知り、自分でやれることが増えてくる。サッカーでも個性、自分自身が芽生えてくる。
その時に、コーチが子ども(選手)に何を伝えるか? 親が何を言うか? 先生が何を教えるか? これが非常に大事になる。
そこで間違ってはいけない。子どもを育てるのに、甘すぎても厳しすぎてもいけない。
親が子供に甘くて、先生が厳しいという時代ではなく、誰もが必死で若者を育てるという意識が大事なのであろう。
昔は躾がなっていない親は注意され、「子どもを鍛えて下さい」と指導者は頼まれた。
自分の子どもに甘く、周りにも鍛えてもらわない――。そんな未来の大人はどうなるのであろうか?
しかしこの「普通」も時代により変わっているということを、しっかり理解していくことが大事である。
「凡事徹底」という言葉を知る機会があった。
「普通の事をちゃんとやる」の意だが、「普通」が人により異なり、国により、文化によっても変わってくる。
そしてコロナにより「普通」が普通ではなくなってしまった。
握手、挨拶、コミュニケーション、円陣を組む、ハグ、会食、祝い事、時には思いやることさえも勘違いされる。
そんな世の中で、今の子どもたちをどう成長させていくか?
子どもたちだけではない、育成年代の選手たち、ユース年代、オリンピック年代、そして年齢関係なく成長したい選手をどう鍛え、どう育てるか?
一人ひとりが強くなるためにどう教育があり、どういう関わりが人を育てるのか?
長年築き上げたものを一度ぶっ壊して、後退させて前進しなければいけない時もあるかもしれない。
「他人の子ども」なのか「人類皆兄弟」なのか? もし人類が団結して進めるのであれば、簡単な話なのであろうか?
政治があり、憲法があり、国のルールがあり、お金があり、人が歩いている世の中。どう育つかは一人ひとりが強く生きるという事が大前提なのであろう。
僕が監督を務める鈴鹿ポイントゲッターズというクラブはJFLに所属し、ほとんどの選手が練習後な働き生計を立てている。
僕はチームの目標として「勝利と成長」を掲げてスタートした。
勝利と成長? 当たり前じゃん……と言うであろう。サッカーはもちろんのこと、どんなスポーツでも「勝利を目標にしないでやる人がいるの?」と。
これはアマチュアであれ、プロであれ、大人であれ、子どもであれ同じ。勝利という目標があり、それを掴むために努力を重ねるのがスポーツの“当たり前”の姿だ。
100m走で言えば、100m先に誰が一番先に到着するかの勝負であり、やはり勝利を目指す競技だ。
これは子どもの運動会も、世界陸上もオリンピックも同じルールで同じ目標だ。
そして、それを勝ち取り、誰よりもこの勝利を得るためには、“当たり前”だが個人が組織が成長しなければそこには立てない。
これが「凡事徹底」という意味だ。
「普通の事をちゃんとやる」ということなしに非凡な成果は掴めないのだ。
少し難しい話になってしまったが、そうやって必死にやることを「楽しい」と呼ぶのだと思う。
「楽しく」は凡事徹底。
二つの言葉は、きっと同じ意味なのであろう……。
2021年8月31日
三浦泰年
「普通の事をちゃんとやる」の意だが、「普通」が人により異なり、国により、文化によっても変わってくる。
そしてコロナにより「普通」が普通ではなくなってしまった。
握手、挨拶、コミュニケーション、円陣を組む、ハグ、会食、祝い事、時には思いやることさえも勘違いされる。
そんな世の中で、今の子どもたちをどう成長させていくか?
子どもたちだけではない、育成年代の選手たち、ユース年代、オリンピック年代、そして年齢関係なく成長したい選手をどう鍛え、どう育てるか?
一人ひとりが強くなるためにどう教育があり、どういう関わりが人を育てるのか?
長年築き上げたものを一度ぶっ壊して、後退させて前進しなければいけない時もあるかもしれない。
「他人の子ども」なのか「人類皆兄弟」なのか? もし人類が団結して進めるのであれば、簡単な話なのであろうか?
政治があり、憲法があり、国のルールがあり、お金があり、人が歩いている世の中。どう育つかは一人ひとりが強く生きるという事が大前提なのであろう。
僕が監督を務める鈴鹿ポイントゲッターズというクラブはJFLに所属し、ほとんどの選手が練習後な働き生計を立てている。
僕はチームの目標として「勝利と成長」を掲げてスタートした。
勝利と成長? 当たり前じゃん……と言うであろう。サッカーはもちろんのこと、どんなスポーツでも「勝利を目標にしないでやる人がいるの?」と。
これはアマチュアであれ、プロであれ、大人であれ、子どもであれ同じ。勝利という目標があり、それを掴むために努力を重ねるのがスポーツの“当たり前”の姿だ。
100m走で言えば、100m先に誰が一番先に到着するかの勝負であり、やはり勝利を目指す競技だ。
これは子どもの運動会も、世界陸上もオリンピックも同じルールで同じ目標だ。
そして、それを勝ち取り、誰よりもこの勝利を得るためには、“当たり前”だが個人が組織が成長しなければそこには立てない。
これが「凡事徹底」という意味だ。
「普通の事をちゃんとやる」ということなしに非凡な成果は掴めないのだ。
少し難しい話になってしまったが、そうやって必死にやることを「楽しい」と呼ぶのだと思う。
「楽しく」は凡事徹底。
二つの言葉は、きっと同じ意味なのであろう……。
2021年8月31日
三浦泰年