「北京五輪がなければ、ドイツW杯の優勝はなかったかもしれない」
――日テレ・メニーナ(当時)でプレーしていた2001年に、ベレーザの方でも選手登録されています。同世代のなかでは早いほうだったのでは?
下部選手としての登録は、あんまり実感が沸かないんですよ。自覚できたのは、ベレーザだけの練習になってからですね。高校2年生(2003年)の時だったと思います。7人くらいが同時に昇格して、若い選手がごっそり上がってきたことで雰囲気も変わったし、昔からいた先輩方は大変な思いをしたんじゃないかな……。
――ベレーザの場合、そうした主力選手の代替わりでチーム成績が沈んでも、すぐにまた優勝争いできる位置に戻ってくるところがすごいですね。
メニーナでは、技術が培われるだけでなく、「ベレーザはトップであり続ける!」というメンタルも育つと思います。「ベレーザに昇格すればOK」という選手はいなくて、「ベレーザで試合に出たい」「なでしこジャパンに選ばれたい」という気概が生まれる。より上の目標を持てる選手が多く集まるチームなので、そうしたメンタルの選手が経験を積むことで、ようやく優勝に手が届く位置まで戻って来られるのだと思います。
私自身の体験でいうと、(澤穂希選手など主力が移籍した)2011年の頃は、すごく、もがいていました。後輩には、ずいぶん、厳しいことも言いました。言われる側は辛かったんですが、歯を食いしばってついてきてくれた選手が、高いレベルの選手に育っていると感じます。だからこそ、5連覇(2016~2020年)ができたと思います。
――若いころから、ずっと高い意識を持ち続けた岩清水選手だからこそ、代表でもチャンスを掴むことができたんでしょう。レギュラー定着のきっかけとなった2006年、熊本でのアメリカ戦は、主力選手の故障で、急遽回ってきた先発出場でした(セットプレーから先制点を奪うなど強豪相手に堂々と渡り合い、ポジション確保に成功した)。
あの時は、なでしこジャパンに入ったばかりで、控えにいても「いつでも出てやるぞ」という怖いもの知らずの状態でしたね(笑)。そういった意欲が、良い方に出ました。(コーナーキックからのゴールは)「ボールが来れば行ける!」という、根拠のない自信もありました(笑)。
でも今になって振り返ると、私が試合に出ている中で、周りの選手がすごくカバーしてくれていたから、自由にできたんだと思います。当時は、いっぱいいっぱいで、分からなかったんですが、先輩たちには感謝しかないです。
――あの試合をきっかけに、2年後の北京オリンピックを皮切りに、世界大会で主力としてプレー。女子ワールドカップ・ドイツ大会の優勝など、なでしこジャパンでも長く活躍されました。
佐々木則夫監督のもと、自分も長い間、センターバックというポジションを任せてもらえて……。経験、年齢など、いろんなタイミングが重なり、みんながすごく良い時期に2011年のワールドカップで優勝することができた。自分にとって一番の思い出ですが、北京オリンピックの悔しさもつながっての優勝だったなと。
――2008年の北京五輪は、4位に終わりました。
その4位があったからこそ、「メダルを獲りたい!」という気持ちが強くなりましたね。当時、ベスト4に残った4チームで、唯一、メダルを持って帰れなかったチームが私たちだった。その悔しさを初めて感じた場でもありました。代表チームにとっては、ターニングポイントだったと思います。
――逆に言えば、北京でメダルをとっていたら、進歩が止まった可能性もあった、と。
メダリストになってしまえば、本当の意味でのチャレンジャーではなくなっていた可能性もあるのかな? と。2011年に女子W杯で優勝した後は、ロンドン五輪で改めて、勝ち抜くことの難しさを痛感しました。もし2008年にメダルをとっていたら、2011年の戦い方も変わっていたのかも。
――その2011年の優勝メンバーとは、東京オリンピック2020の聖火ランナー第一走者として再会しました。集まった時に、何か思い出話などが出たりしましたか?
夜に集合して、朝、顔を合わせて「お久しぶりです」みたいな感じで(笑)。じっくりと話す時間はなかったんですけれども、集合しただけでうれしいですね、あのメンバーは。自分たちの中に刻まれた同じ時間があるので、誰と会っても笑顔になれるんです。すごく楽しい時間でしたし、やっぱり特別な仲間たちですね。
下部選手としての登録は、あんまり実感が沸かないんですよ。自覚できたのは、ベレーザだけの練習になってからですね。高校2年生(2003年)の時だったと思います。7人くらいが同時に昇格して、若い選手がごっそり上がってきたことで雰囲気も変わったし、昔からいた先輩方は大変な思いをしたんじゃないかな……。
――ベレーザの場合、そうした主力選手の代替わりでチーム成績が沈んでも、すぐにまた優勝争いできる位置に戻ってくるところがすごいですね。
メニーナでは、技術が培われるだけでなく、「ベレーザはトップであり続ける!」というメンタルも育つと思います。「ベレーザに昇格すればOK」という選手はいなくて、「ベレーザで試合に出たい」「なでしこジャパンに選ばれたい」という気概が生まれる。より上の目標を持てる選手が多く集まるチームなので、そうしたメンタルの選手が経験を積むことで、ようやく優勝に手が届く位置まで戻って来られるのだと思います。
私自身の体験でいうと、(澤穂希選手など主力が移籍した)2011年の頃は、すごく、もがいていました。後輩には、ずいぶん、厳しいことも言いました。言われる側は辛かったんですが、歯を食いしばってついてきてくれた選手が、高いレベルの選手に育っていると感じます。だからこそ、5連覇(2016~2020年)ができたと思います。
――若いころから、ずっと高い意識を持ち続けた岩清水選手だからこそ、代表でもチャンスを掴むことができたんでしょう。レギュラー定着のきっかけとなった2006年、熊本でのアメリカ戦は、主力選手の故障で、急遽回ってきた先発出場でした(セットプレーから先制点を奪うなど強豪相手に堂々と渡り合い、ポジション確保に成功した)。
あの時は、なでしこジャパンに入ったばかりで、控えにいても「いつでも出てやるぞ」という怖いもの知らずの状態でしたね(笑)。そういった意欲が、良い方に出ました。(コーナーキックからのゴールは)「ボールが来れば行ける!」という、根拠のない自信もありました(笑)。
でも今になって振り返ると、私が試合に出ている中で、周りの選手がすごくカバーしてくれていたから、自由にできたんだと思います。当時は、いっぱいいっぱいで、分からなかったんですが、先輩たちには感謝しかないです。
――あの試合をきっかけに、2年後の北京オリンピックを皮切りに、世界大会で主力としてプレー。女子ワールドカップ・ドイツ大会の優勝など、なでしこジャパンでも長く活躍されました。
佐々木則夫監督のもと、自分も長い間、センターバックというポジションを任せてもらえて……。経験、年齢など、いろんなタイミングが重なり、みんながすごく良い時期に2011年のワールドカップで優勝することができた。自分にとって一番の思い出ですが、北京オリンピックの悔しさもつながっての優勝だったなと。
――2008年の北京五輪は、4位に終わりました。
その4位があったからこそ、「メダルを獲りたい!」という気持ちが強くなりましたね。当時、ベスト4に残った4チームで、唯一、メダルを持って帰れなかったチームが私たちだった。その悔しさを初めて感じた場でもありました。代表チームにとっては、ターニングポイントだったと思います。
――逆に言えば、北京でメダルをとっていたら、進歩が止まった可能性もあった、と。
メダリストになってしまえば、本当の意味でのチャレンジャーではなくなっていた可能性もあるのかな? と。2011年に女子W杯で優勝した後は、ロンドン五輪で改めて、勝ち抜くことの難しさを痛感しました。もし2008年にメダルをとっていたら、2011年の戦い方も変わっていたのかも。
――その2011年の優勝メンバーとは、東京オリンピック2020の聖火ランナー第一走者として再会しました。集まった時に、何か思い出話などが出たりしましたか?
夜に集合して、朝、顔を合わせて「お久しぶりです」みたいな感じで(笑)。じっくりと話す時間はなかったんですけれども、集合しただけでうれしいですね、あのメンバーは。自分たちの中に刻まれた同じ時間があるので、誰と会っても笑顔になれるんです。すごく楽しい時間でしたし、やっぱり特別な仲間たちですね。