アキレス腱の断裂、大宮への移籍。それから意識改革が始まった
プロ生活16年で代表とは縁がなかった。「一度でいいから代表候補の合宿に行ってみたかった」との思いはあるが、そこはプロの世界。「実力が足りなかった」と割り切るしかない。それでも、J1とJ2で積み重ねてきた出場記録は、Jリーグ通算397試合出場。「400」の大台に届かなかったことは心残りだが、現役生活を全うできた思いでいる。ここまで長く現役を続けられたことに対して、周囲でサポートしてくれた家族、チームメート、クラブスタッフ、コーチングスタッフ、そしてファン・サポーターにも感謝の念がたえない。
振り返れば、キャリアの転機は二つのターニングポイントが大きく影響している。2009年の8月、京都在籍時に左アキレス腱断裂という大ケガを負ったことと、ステップアップを目指した11年の大宮アルディージャへの移籍だ。
09年に左アキレス腱を断裂するまで、渡邉はバリバリのサイドアタッカーだった。ワイドにポジションを取り、味方からボールを受ければ、ドリブルで積極的に仕掛ける。アタッキングエリアでの選択肢はカットインからのフィニッシュやクロスボールの供給だった。しかし、左アキレス腱を断裂して以降、20代後半に差し掛かった年齢の影響もあるとはいえ、自分自身の中でもスピードや瞬発力の低下を実感しつつあった。
当時のポジションはサイドハーフやサイドバック。サイドハーフに求められる役割も時代によって変化しつつあり、「サイドハーフのポジションにはインサイドでプレーできる選手が求められている」と渡邉本人は自覚していた。そして11年に大宮へ移籍してからは、サイドバックやサイドハーフのポジションには強力なライバルの存在があった。
例えば、サイドバックであれば、守備でもバランスの取れる杉山新や村上和弘が重宝された。一つ前のポジションであるサイドハーフには、ベテランの藤本主税や生え抜きの渡部大輔らがいた。アキレス腱の断裂と、11年の大宮への移籍。それから、渡邉の“意識改革”が始まった。
「ライバルに対抗するにはどうしたらいいのか。ポジションを取るためにはどうすべきなのか。自分がプレーヤーとして生き残っていくためにはどうすればいいのか。それを考えるようになった」
行き着いた答えは、ライバルの存在がヒントになった。藤本は個の力で打開するよりも、周囲との連係で生きるタイプの選手。また渡部はハードワーカーである上に、中でも勝負できるサイドプレーヤーだった。
「その二人のちょうど中間をできるようになることで生き残っていけるんじゃないか」
ハードワークをいとわない献身性でチームを支え、周囲とのコンビネーションを発揮しながら、チームとしての機能性を高めるプレーヤーに脱皮する。攻守両面において、チームの“潤滑油”として働くことに、自分自身の存在価値を見いだした。
「京都時代のプレースタイルそのままだったら、こんなに長く現役を続けられなかったと思います」
振り返れば、キャリアの転機は二つのターニングポイントが大きく影響している。2009年の8月、京都在籍時に左アキレス腱断裂という大ケガを負ったことと、ステップアップを目指した11年の大宮アルディージャへの移籍だ。
09年に左アキレス腱を断裂するまで、渡邉はバリバリのサイドアタッカーだった。ワイドにポジションを取り、味方からボールを受ければ、ドリブルで積極的に仕掛ける。アタッキングエリアでの選択肢はカットインからのフィニッシュやクロスボールの供給だった。しかし、左アキレス腱を断裂して以降、20代後半に差し掛かった年齢の影響もあるとはいえ、自分自身の中でもスピードや瞬発力の低下を実感しつつあった。
当時のポジションはサイドハーフやサイドバック。サイドハーフに求められる役割も時代によって変化しつつあり、「サイドハーフのポジションにはインサイドでプレーできる選手が求められている」と渡邉本人は自覚していた。そして11年に大宮へ移籍してからは、サイドバックやサイドハーフのポジションには強力なライバルの存在があった。
例えば、サイドバックであれば、守備でもバランスの取れる杉山新や村上和弘が重宝された。一つ前のポジションであるサイドハーフには、ベテランの藤本主税や生え抜きの渡部大輔らがいた。アキレス腱の断裂と、11年の大宮への移籍。それから、渡邉の“意識改革”が始まった。
「ライバルに対抗するにはどうしたらいいのか。ポジションを取るためにはどうすべきなのか。自分がプレーヤーとして生き残っていくためにはどうすればいいのか。それを考えるようになった」
行き着いた答えは、ライバルの存在がヒントになった。藤本は個の力で打開するよりも、周囲との連係で生きるタイプの選手。また渡部はハードワーカーである上に、中でも勝負できるサイドプレーヤーだった。
「その二人のちょうど中間をできるようになることで生き残っていけるんじゃないか」
ハードワークをいとわない献身性でチームを支え、周囲とのコンビネーションを発揮しながら、チームとしての機能性を高めるプレーヤーに脱皮する。攻守両面において、チームの“潤滑油”として働くことに、自分自身の存在価値を見いだした。
「京都時代のプレースタイルそのままだったら、こんなに長く現役を続けられなかったと思います」
サイドアタッカーからの転換が、長らく現役生活を続けられる原動力になった。
13歳の中学時代から綴ってきた“サッカーノート”は、現役引退の日を境に「止まっている」。サッカーに関することを思いつくままに書き留めてきたサッカーノートには、練習内容や試合のことだけではなく、他人には決して吐露できないグチの類も記してきたが、一文字も記していない現実は、サッカー選手をやめたことの証でもある。
今後のセカンドキャリアは、これまでお世話になった人などに相談しながら、いくつかの可能性を模索している。その方向性が決まった時、渡邉大剛の第二の人生が始まる。
取材・文●郡司 聡(フリーライター)
13歳の中学時代から綴ってきた“サッカーノート”は、現役引退の日を境に「止まっている」。サッカーに関することを思いつくままに書き留めてきたサッカーノートには、練習内容や試合のことだけではなく、他人には決して吐露できないグチの類も記してきたが、一文字も記していない現実は、サッカー選手をやめたことの証でもある。
今後のセカンドキャリアは、これまでお世話になった人などに相談しながら、いくつかの可能性を模索している。その方向性が決まった時、渡邉大剛の第二の人生が始まる。
取材・文●郡司 聡(フリーライター)